安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

それは自力ではありません(迷う旅人さんのコメントより)

迷う旅人さんよりコメントを頂きました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081111/1226397978#c1226571983

長文のコメントでしたので、結論だけ先に書きますと、迷う旅人さんが、どうにかしようとしているものは、自力の心ではありません。
別物です。

別物をなんとかして獲ようとしている結果は、真実信心ではありません。

ならば、こう聞けば、ああ聞けば、これをすれば、あれをすれば、何とか助けていただけるのではないか、の気持ちがやはり後から後から湧いてきてこびりついて消えません。その心を捨てよ、捨てようとする心も捨てよと言われるので、いろいろ試してきました。阿弥陀様お願いだからこの心を切り落として下さいと泣きつくこともあります。でも、どこまでいっても自力から離れられない。

最初のこれは、言葉を真似しているだけにすぎません。
「自力の心」を捨てよ、と言われているのであって、「助かりたいという感情」を捨てよと言われているのではありません。

前回のエントリーでも書きましたが(自力の心と「こころ」の違い(kaiinさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))ここで迷う旅人さんが「助かりたい」というのは「感情」です。
自力の心は「感情」ではありません。

感情を問題にして、なんとかしようとするから

自分を励まし、自分に言い聞かせます。一時は元気になりますが、すぐ心は嵐になります。

という行動になるのです。元気になったり、心が嵐になるのは、感情だからです。ふり返ってみてどうでしょうか?

自分の心で信じるのではない、だから阿弥陀仏から真実の心をいただくしかない。そう思っても、どうすればそのお宝が頂けるのか?という心がもたげます。

「なにか自分の心が素晴らしくなる」のが信心ではありません。
「清らかな心になる」のが信心ではありません。
「不実で汚いこころが、清浄な真実心に切り替わる」のでもないのです。
煩悩は、信前信後もかわりません。
汚い心は、信前信後もかわりません。
弱い心も、信前信後も変わりません。

「不断煩悩得涅槃」(正信偈)
と言われているとおりです。

今死んだらどうするのか、未来永遠苦しみ続けたいのか?いやだ!そう思っても、今なおもって知らされるのは、一歩だって仏法に向かって進みたくない心、一円だって仏法のために使いたくない心です。今日こそは信心を頂くのだ、今日こそは苦悩の世界とおさらばするんだ、と思っても、その思いはいつも空回りします。

厭離穢土という言葉もありますが、しかし、この心はいわば仏法の聞き始めの心です。
苦悩の世界から逃げるパスポートが信心と思っておられるのでしょうか。確かに、真実信心を獲得すれば、この世から往生一定の身に救われます。
しかし、「苦しみから逃れたい」からの信仰なら、世界に多くあるご利益宗教となにが変わるでしょうか。

「苦しみから逃れた世界」を夢見て、自分の時間や、仕事や、精神力を差し向けて、そのご褒美として「なにか素晴らしいもの」を獲ようとするのは目的違いです。

阿弥陀仏が「抜いてやる」といわれている「苦悩」とは、迷う旅人さんがいう「苦悩の世界」ではないのです。もしそうなら、阿弥陀仏に救われたら、この世界は、「苦悩が一切ない」それこそ清浄な世界になるのでしょう。抜くのはあくまで自力の心であり、与えてみせると言われているのは、南無阿弥陀仏の名号です。

後生の一大事とは、未来永遠苦しみ続けると言うことのように思っておられるのでしょうが。(結果から言えばそうなのですが)
「信心決定できない」ということこそが、一大事なのです。

此の一流のうちに於て、確々とその信心のすがたをも得たる人これなし。かくの如くの輩は、いかでか報土の往生をば容易く遂ぐべきや。一大事というは是れなり。(御文章1帖目5通 雪の中)

「信心決定しよう」という心は、常に「真実信心」に目的を見すえて、そこからぶれてはなりません。目的がぶれるから、努力が空回りするのです。
迷う旅人さんは、文面から非常に真面目に、人以上の努力をしておられます。それは、大変素晴らしいことです。しかし、方向を間違えてしまえば、いつまで経っても信仰は進みません。

進まないどころか、向こうところが違っています。

ただ正直なところ、善知識が進められた通りの道を進んでいるのか?表面上はそうかもしれないけど、何かが間違っているから前に進めないのでは?という思いもあります。

ご自分が書いておられるとおりです。
今進んでいる道が、文面通りなら、その先にあるのは真実信心ではありません。
たとえて言うと、横の線に平行に走っている別の線をすすむようなものです。その先には縦の線はありません。
ありませんから、突破することはできません。

道が違っているのですから、変わらないはずの心を自力と間違え、何とかしようと頑張ってもそれは疲れるだけでしょう。

自分の進む道が、方角違いと言うことに本当は気づいているはずです。気づいていても、それを認めると、今までの聞法人生が否定されるのが怖いからです。

自分の善が間に合わない、と知らされるのが怖くて、ずっとしがみついていました。
でもどうやって手を離していいか分からないんです。

こう言われるのは、自力の心と、自分の感情を混在して考えているからです。
安楽椅子という言葉を使うなら「自力の心と戦っているつもり」という安楽椅子です。

こう言われる迷う旅人さんはおそらく頭のよい方なのでしょう。頭がいいがゆえに、心を見つめるより先に、頭が結論を出してしまうのです。その頭が出した結論というフィルター越しに自分の心を見つめても、感情や思考のそのまた下にある自力の心は見えてきません。

皆人ごとに、「我はよく心得たり」と思いて、更に法義に背くとおりをも、あながちに人に相尋ねて、真実の信心をとらんと思う人、すくなし。これ誠にあさましき執心なり。
 速にこの心を改悔懺悔して、当流真実の信心に住して、今度の報土往生を決定せずは、誠に宝の山に入りて、手をむなしくして帰らんに異ならんもの歟。(御文章3帖目8通 不廻向)

その安楽椅子を蓮如上人は「誠にあさましき執心」と言われます。しかし、御文章に、蓮如上人は幾たびも、「改悔懺悔」とか「日頃の悪心を翻して」と書かれています。それは、真実信心を得るまでは人は常に迷うものだからです。間違うものだからです。迷うからこそ今の今まで流転を重ねてきたのではないでしょうか。

しかし、仮に間違いに気づいても遅すぎるということはありません。「速やかにこの心を改悔懺悔して」と言われている通りです。
弥陀の救いは一念です。目的を間違わなければ、真実信心獲得の身になるのは、現在ただ今のことです。

必ず弥陀の願力が届きます。