安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

立場や格好より大事なこと(orimaさんのコメントより)

orimaさんより、コメントを頂きました。有難うございました。
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081111/1226397978#c1226415690

多くの人が、一度は考えることではないかと思い、回答致します。

今の正直な心境は、自分は仏法を何にも分かっておらず、人からよく思われたいと名誉などで聞いているように思います。聞いても、知識だけで、まったく自分のことでないような気持ちです。懸命に聞けば、そんな自分の心も変わるのかと思うのですが、どうなったのが懸命なのか、何をどう聞くのかもはっきりせず、懸命に聞けばという心も続かないでいるような状況です。形だけ立場があって、そんな心をどこにも出すこともしないで、ただ名誉だけで求めているような感じがしています。そんな格好だけでは駄目だと思うのですが、思うだけです。仏縁がないのでしょうか。どう進んだらよいものか悩んでおります。

まず、仏縁がないのかと言うことですが、間違いなく仏縁のある方だと思います。仏縁がなかったら、今の気持ちが自覚の上でどうあれ、仏法を聞くご縁に恵まれると言うことはありません。

仏法がわかっていないというのは、それだけ聞いてきてこられたからにほかならず、「本当に」なにもわかっていない人には出てこない言葉です。「自分はわかっている」と思ってしまえば、どうしてそれ以上信仰をもとめる気持ちが出てくるでしょうか。
信仰を求める上で恐ろしい安楽椅子は、「救われたつもり」が一番ですが、次に恐ろしいのが「分かっている」という安楽椅子です。

orimaさんの疑問は、「分かっている」という椅子に座り込んでいないところが、大変まじめな方だと思います。仏法は、心の問題です。救われるのは、私の心なのです。その故に、心の動きに敏感にならねばなりません。
そこで、

懸命に聞けば、そんな自分の心も変わるのかと思うのですが

というように言われていますが、これは「自分のことと思えない心」が「我がごととなり真剣な心」に変わると言うことでしょうか?

「真剣になれば」とおもって、「真剣になろう」と思うのは、目的が違います。あくまでも仏法の目的は信心決定です。弥陀の救いにあうことです。
「弥陀の救い」「信心決定」ということがハッキリしないので、何をしているのか分からなくなってくるのではないかと思います。精神的にも、肉体的にもまだまだ力がある年代の方ではないかと思いますが、その力が空回りしているのは、目的がハッキリしなくなっているからです。
言葉を換えれば、どうすれば信心決定できるのかということが問題になっていないからです。

こういいますと、「信心決定しようという心がそもそもないのですが」と言われる方もあります。
最初に仏法を聞こうと思ったときは、どういう心であったのかを思い出していただきたいと思います。人によっては、人によく思われようとか、なにかわからんすばらしい世界に出られると思っている人もあるでしょう。
しかし、「信心決定しよう」と思う心はあったのだと思います。そうでなければ、何年間も続けて仏法を聞いてはおられないでしょう。

空回りの原因は「信心決定できないのではないか」という気持ちが、原因です。
本当に、今生で信心決定の身になれると思っておられるでしょうか?
どこかあきらめた気持ちはないでしょうか?
もし、あきらめた気持ちがあるとするなら、それは何がきっかけで(または理由で)そのように思うのでしょうか?

誰に質問しても「それは救われなければ分からないことだ」と言われ続けて、とにかく考えるのをやめようと思ったと言う人もあります。

「救われなければ分からない」というのは体験の話で、まったく言葉にできないと言うことではないです。言葉にしても分かってもらえないだけなのです。
「救われなければ分からない」とばかり答える人は、「私は救われていません」という自身の無信仰を告白しているに過ぎません。

形だけ立場があって、そんな心をどこにも出すこともしないで、ただ名誉だけで求めているような感じがしています。

真実信心を得ると言うことは、立派な人になることではないのです。立派に、人に尊敬される人になったら得られる信ではありません。
しかし、格好を問題にするのが、問題ではありません。一番の問題は、自身の信仰を打ち出さないでいることです。

未安心の輩は不審の次第をも沙汰せざるときは、不信の至ともおぼえはんべれ。されば、遥々と万里の遠路を凌ぎ、又莫大の苦労をいたして、上洛せしむるところ、更にもってその所詮なし。悲しむべし悲しむべし。(御文章4帖目7通 六箇条)

コメントで頂いたことは、文中にもありますが、orimaさん自身が、リアルな人間関係や会合の場で語ったことのないことだと思います。そういうことは、打ち出していかねばならないのです。蓮如上人も言われている通り、それは「不信の至」です。どれだけ苦労をしても、その所詮がないとまでいわれています。頑張ることが悪いのではありません。心を打ち出さない、不審の次第を沙汰しないのが悪いのです。

信心の沙汰というのは、「立派なことの表明の場」ではありません。

王舎城の悲劇で韋提希夫人が、お釈迦様にむかって散々な言葉を投げつけていますが、あのように思ったことをありのままにいうのが、信心の沙汰の場では大事なことなのです。
言わねば、何が間違っているかわかりません。どこに向かえばいいかわかりません。

立場もあるとことで、はばかられるのなら、せめてこのブログ上では、包み隠さず思ったことを打ち出してもらいたいと思います。多くの人が読めるコメント上で不都合があれば、メールでも結構です。
Email : yamamoyama@gmail.com

どう進んだらよいかと言うことについては、まず「信心決定ということは、できるものだ」ということを信仰を求める大前提として下さい。
目的が定まった上での、どう進むかです。
目的を見失わなければ、阿弥陀仏の光明は常に働いています。遍照の光明なのですから。
必ず真実信心獲得できたというときがあります。