安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

求道が目的ですか?信心決定が目的ですか?(よこやりさんのコメント)

よこやりさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

三願転入で「善知識に勧められて、19願の修善を長く(久しく)やって、そこから出て20願に進んだ」
と書かれてあるから、「私たちもまず19願の修善を真剣にしなければ18願まで進めないのだ」と、友人は言います。
先日の教学講義でも、善ができるとうぬぼれている私たちは、三世の業障(罪悪)もわからず、よって、弥陀にまかせる気持も起きないから、善ができるかどうかやらせるしかないと、お釈迦様は因果の道理を説かれ修善を勧められた、と
お聞きしました。
19願の教えにしたがって修善をしなければ18願の世界には出れない道ということでしょうか?
結局、18願に出るには、教えられた通りにとにかく修善をやっていくしかないのでしょうか?
何度も同じような事をお聞きしてすみません。結局どうすればいいのだろうか、とグルグル戻ってきてしまいます。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090224/1235434008#c1235480095

回答いたします。
結論から言いますと、阿弥陀仏に救われるということは、修善の結果ではなく、あくまで雑行雑修自力の心が廃ったかどうかです。「善をしなければ救われない」というと、「善をすれば助かる」と言うことになってしまいます。そうなると、あと一刹那で臨終という人は、善ができませんから助からないと言うことになります。昨日仏法を聞き始めた人も助からないと言うことになります。前回も書きましたが、19願も18願もすべて阿弥陀仏の願であって、私の願ではありません。

問題は、「求道がしたいのか、信心決定したいのか」ということです。
善を勧めるのは当然のことで、悪をしろといわれている仏教はどこにもありません。善をしろといわないと善をしようという心がないと決めつけるのは、性格が悪い人なのかもしれません。誰しも困った人をみて助けようという心はあるでしょう。
善悪を問題にするのは浄土真宗ではありません。なぜなら、阿弥陀仏に救われるかどうかは、善ができたからでもなければ、悪をしなくなったからでもないからです。

某(親鸞)はまったく善も欲しからず、また悪も恐れなし。善の欲しからざる故は、弥陀の本願を信受するに勝れる善なきが故に。(覚如上人・口伝鈔)

親鸞は、まったく善も欲しいとも思わないし、悪を恐れる気持ちもない。善を欲しいと思わない理由は、阿弥陀仏の本願に救われる(信心決定する)以上の善はないからだ、といわれています。
この親鸞聖人のお言葉には、「善」という言葉が二つ出てきます。同様の言葉は、歎異抄にもでてきますが、「善も欲しからず」といわれた「善」と、「弥陀の本願を信受する(信心決定)に勝れる善なき」というところの「善」は、別物だとおわかりだと思います。

加えて

往生においては、善も助けとならず、悪も障とならず(覚如上人・口伝鈔)

といわれています。弥陀の浄土に往生するには、善も助けにならないし、悪も障りとならないと言われています。

往生と関係ない(助けともならず)のがいわゆる善といわれるものです。
親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、「皆々信心決定あれかし」ではなかったのでしょうか?
それからしますと、釈尊を始め、善知識方が勧められた「善」とは、「阿弥陀仏の本願を信受」することであり、信心決定することです。

結局、18願に出るには、教えられた通りにとにかく修善をやっていくしかないのでしょうか?

信心決定(善)を勧められているから、早く雑行雑修自力の心を捨てよと言われたのです。善の勧めとは、信心決定せよということなのです。そういう意味で親鸞聖人の教えに善のすすめはあるのです。

信心決定という「善」を勧められたからと行って、他の善をしなくてよいといわれたのではもちろんありません。それを聞き間違えると悪をしたほうがよいという聞き間違いを起こします。しかし、弥陀の本願の救いを求める人、よこやりさんのような人が、信心決定を求めたから、世に言う善をする気持ちが起きなくなるとは考えにくいことです。

浄土真宗には、「信心決定せよ」という教えはありますが「求道せよ」という教えはありません。「求道してから信心決定する」のなら一念で救われると言うことはありません。現在ただ今の弥陀の救いにあうのに時間はかかりません。
ただ、雑行雑修自力の心を捨てるだけなのです。ただ今弥陀の救いにあってください。

最後に、三世の業障についてですが

過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。(御文章5帖目6通・一念に弥陀)

一時に罪消えて、正定聚の位にさだまるという三世の業障とは、一般的には「雑行雑修自力の心」です。結果的に、浄土に往生できると言うことから言えば、「悪も障りにならず」ですが、正定聚にどうやったら入れるかという話ならば、自力の心が廃ってということなのです。

悪をやめる努力が目的となり、善をすることが目的となれば、それは求道が目的となっているのです。いつまで求道をしたいでしょうか?
ただ今の弥陀の救いにあい、信心決定を目的としてください。