安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

教え(弥陀の救い)は知識が指し示す先にある(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有り難うございました。

「高森先生が如何にうそつきかを列挙せよ」とのリクエストがあればそうしますので教えてください。

何度も申しましたが、教えというのは属人性のものではありません。教義は、あくまで親鸞聖人の書かれたものにあり、本願は阿弥陀仏の建てられたものです。
特定個人の言動をとらえたとしても、元自称福徳会員さんのいう「うそつき」というのは、信仰のことなのか、それとも経営判断のことなのか、あるいはその両方を混同して言っているのではないかと思います。

「高森先生がうそつき」だから、親鸞聖人の明らかにされた真実信心、弥陀の救いがウソになるんでしょうか。
貴殿はそのように思われたから、そう思っているのでしょう。そういうものを善知識だのみといわれるのです。
「あいつはウソをついたから、真実信心であるはずがない」というのは、
「三業」で「信心の有無」を判断していることになるのですが、どうでしょうか?

「三業」と「真実信心」は全く関係ありません。
ただ、その当事者が三業で行ったことが、現在の法律に照らし合わせて、違法行為が罪に問われないという意味でないことは当然のことです。

『「善の勧め」は、これは、因果の道理が根幹にある仏教では大前提の話です。』とありますが、貴殿の言われているのはこの世の幸福を求めてのことなのか弥陀の救いを求めてのことなのか不明です。

「弥陀の救い(弥陀に救われるかどうか)」と「善」は関係ないと何度も書いています。

「あなたが善と思っているもの」を行えば、それに応じた結果が返ってきます。
弥陀の救いと結びつけるものではありません。

この世の幸福と言われますが、それがなければ生きてはいけません。
ですが、「この世の幸福」=「弥陀の救い」でないことは、元自称福徳会員さんが言われるとおりです。

救われるために教えなければならない教えであるならばなぜ、両聖人は教えられなかったのでしょうか?

弥陀に救われ、振り返れば分かることと何度も書いています。
視点を変えてください。

特に親鸞聖人の著作に関して言えば、信後の立場から書かれているものがほとんどです。教行信証の御文も、信後(縦の線の左側)から言われていることがほとんどです。

「救われるために」(私がやらねばならないこと)は、一切ないから、他力信心というのではないですか。だから教えられていないのです。
信後の立場から言えばそれは当然です。

そこにこだわるのは、何かしなければならないという思いが貴殿にあるからではないでしょうか。それを自力の心というのです。

じゃあなぜ、信仰求める人が必死に求めているのか?
信後振り返れば、それは「阿弥陀仏が」十九願力で誘導してくださったのだなと知らされるところです。

『「教えをねじ曲げてでも」というのは、どうでしょうか。親鸞会発行の書籍にそうあったら教えて下さい。』とリクエストがありました。清森問答の親鸞会教義の相対化をご覧ください。

あらためて読んでみましたが、「善をしたら救われる」とはどこにもないようですが、私の読み間違えでしょうか?
顕正新聞の幹部の声は根拠にならないと思います。
「財施を勧める=悪いこと」という主張だと受け取りましたが、善悪をつける心を自力というのです。
弥陀の救いということからいえば、関係ないからです。

会計報告と言えば親鸞会はこれだけ批判があがってきているにもかかわらず、いまだに会員さんに開示していないようですね。よほどひどい、内容なのだと思います。表向きは廃悪修善を謳っている団体が会計報告もまともにできないことについて貴殿はどのように思われるでしょうか?

経営判断についての苦情ですね。
以前のエントリーで、経営判断上のことは苦情が出れば直ちに改めるべきでしょう。

教義に明るいから、経営に明るいのではありません。法律に明るいのでもありません。
スポーツの世界でも、名選手と言われる人が、経営者になれないのと理屈は同じです。

「善が救いと関係あるはずがない」と力むのもまた自力だということを、追記しておきます。