安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

如来の仕事に手出しをするのを自力と言います(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメントを頂き有り難うございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080814/1218714993#c1218892654

解説をいただきましたが、1点どうにも引っかかるところがあったのでそこについて書きます。

最初に、前回も書きましたが、視点を変えてください。今回も変わっていません。

親鸞聖人や蓮如上人がお手紙を出されたお相手は18願の救いを求めていた人ですので、善の勧めは説かれていません。説かれていませんが、18願の救いを求めている人には19願・20願の働きにより、善や念仏を称えて救いの足しにしようと言う心が起きてきますので、「雑業・雑修・自力の心を捨てなさい」と教えられます。

おそらく上記の元自称福徳会員さんの解説文を読んだら、「そのとおりでないのか」と思われる人が多いでしょうが、私にはとても違和感を感じます。
教義上、完全に間違いという文章ではないのですが、私が引っかかりますのは以下の部分です。

善や念仏を称えて救いの足しにしようと言う心が起きてきますので

本当にそんな心が、元自称福徳会員さんに起きているんでしょうか?
どうにも外から眺めている文章にしか読めません。

「存命のうちに信心決定あれかし」
と蓮如上人が御文章を書かれた相手は、そんな外から眺めている人に書かれたのではありません。

加えて言うと

18願の救いを求めている人

この救いを求めている人の「十八願の救いを求める心」は、その人自身が起こした心のように読めますが如何でしょうか?

さらにひっかかるところを書かせてもらいますと

う〜ん。分かりやすい説明だな〜。

それは貴方が納得したと言うことですね。
それで、何が獲られたのでしょうか?納得した貴方は、それでは今から何を求めて、真実信心獲得の身になろうと思われているのでしょうか?

「雑行・雑修・自力の心は分かった」と安心して座っておれるのなら、それはわが身にかかっていないと言うことを自ら告白しているに過ぎません。

加えて言うと、19願力、20願力の働きは、救われて振り返って知らされることなのです。三願転入の御文はそうだと、以前元自称福徳会員さんの言われたとおりです。

信後振り返って分かることを、救われた体験もない人が語るという心はどんな心でしょうか?
それは、阿弥陀如来の頭の上に立っている心であり、如来の仕事に手出しをしている心なのです。そう言う心を、自力の心というのです。

自分で判断できる、自分は善悪が分かるという心が、強く強くあるのではないでしょうか?阿弥陀仏の本願力や、阿弥陀仏が願を立てられた御心をあれこれ判断できる知恵があるならば、他力廻向の南無阿弥陀仏を阿弥陀仏はつくられません。

何度も書きますが、19願も、20願も、18願も、「阿弥陀仏」の願であって、「私」の願ではありません。
行者が何かしたから助かるという教えなら、他力信心とはいわれません。

そこまで進んでいない人には19願の救い(化土往生)を勧め、そのために諸善を勧めています。
(罪福深く信ぜしめ)

と解説されていますが、誰が誰に勧めているのか、私が読む限りでは、善知識が勧めて行者が自分の力で行っているようにしかよめませんが。いかがでしょうか。


最後に

親鸞会の反社会的な行為を知り、会を辞め、本当の親鸞聖人の教えを求める人は仏縁のある方だと思います。
親鸞会の反社会的な行為を知り、会を辞め、親鸞聖人の教えと縁の切れた方はあまり仏縁のなかった方だと思います。
親鸞会の反社会的な行為を知りながらも会員を続ける方は宿業を感じます。前世からの業でこの世も苦しみ、さらに悪業を重ねて流転していくのでしょう。

どこかの団体に属するか、辞めるかで仏縁を判断する貴方の心境が私にはよく理解できません。

仏縁あるかないかなど、人間があれこれ言えることではありません。そこが、阿弥陀仏の頭の上に立った心だと申し上げたのです。

所属する団体で決まる信なら、それは真実信心ではありません。
所属する団体で妨げられる信なら、それも真実信心ではありません。

加えて団体の経営判断と、真実信心は関係がありません。関係づける心はまた、自力の心です。