安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

至誠心とは何なのか?(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
返信が遅くなり申し訳ございませんでした。

観無量寿経の「至誠心」とは何か、教えていただけないでしょうか?
また、親鸞聖人はなぜ善導大師と異なる立場で教えられたのでしょうか?
善導大師よりもお釈迦様に近い立場で教えられたということなのでしょうか?
(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090406/1238977223#c1239026052

至誠心とはどういうものか?ということについて、親鸞聖人は教行信証に善導大師の書かれたお言葉を引用されています。

一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃歎し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。およそ三業を起こすに、かならず真実心を須いるがゆえに至誠心と名づく。(教行信証より・善導大師往生礼讃の引用部分)

一つには至誠心、体で阿弥陀仏を礼拝し、口で阿弥陀仏を讃嘆し、心で阿弥陀仏を専念し観察することをいいます。三業を起こすに必ず真実の心を起こすから至誠心と名付けるのだといわれています。
至誠心の「至」も「誠」もまことという意味です。
前回のエントリーで引用した、唯信鈔文意のもとである、唯信鈔にはこのように書かれています。

一つには至誠心、これすなわち真実のこころなり。おほよそ仏道に入るには、まづまことのこころをおこすべし。(唯信鈔)

至誠心は、真実のこころである。仏道に入るにはまず「まことのこころ」を起こしなさいと言われています。
三業を「まこと」にしなさいと言うことから、「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」というお言葉がでてきます。それについて、親鸞聖人は一見全く反対の意味に解説をされています。
それは、阿弥陀仏の18願は「まことの心の無いものと見抜いてただ今救う」という本願でありますから、その立場から、19願を説かれた御心を親鸞聖人が解説されたからです。
反対に、善導大師はなぜそのように説かれなかったのかといいますと、法然上人よりさらに前の時代の中国という時代背景では、そのように説かなければ誰も分からなかったからと思われます。仏道の入り口に入っていない人に対して、まず「まことのこころ」をおこしなさいと言われています。

また、善導大師よりお釈迦様に近い立場というよりは、阿弥陀仏の立場から説かれたといったほうが分かっていただけるかと思います。

まとめますと、唯信鈔に言われているように、仏道の入り口に入ろうという人に至誠心を説明されたのが善導大師の「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」です。親鸞聖人は、阿弥陀仏のただ今の救い、まことの心の無いものを救うという本願から解説をされました。

よって、浄土真宗のご門徒の方や、まじめにただ今の阿弥陀仏の救いを求めている人に対して、仏道の入り口の話をするというのは、弥陀の救いを遠ざけている結果になってしまいます。
もちろん、善をしなくてよいとかいう話ではありません。
あくまでもただ今の弥陀の救いに、あうかあわないかということです。
「ただ今救われるのはどうしたらよいでしょうか?」という問いに「まず三業を善くして来なさい」では、「ただ今の救い」に対する回答にはなりません。

ただこのように書きますと、親鸞聖人と善導大師はまったく別のことを書かれたかのように思われるかもしれませんが、本当は全く同じ一つの真実信心を明らかにされたのだということを、蓮如上人はこのように言われています。

その信心というは、『大経』には三信と説き、『観経』には三心といい、『阿弥陀経』には一心とあらわせり。三経ともに其の名異りたりと雖も、其の意はただ他力の一心をあらわせる意なり。(御文章1帖目13通・三経安心)

他力の信心というのは、大無量寿経には三信(至心信楽欲生我国)と説かれ、観無量寿経には三心(至誠心深心廻向発願心)といい、阿弥陀経には一心と説かれている。三経でその呼び名は変わっているけれども、ただ他力の信心一つ、真実信心一つをあらわされているのだといわれています。

表面だけ見ると、善導大師と別のことを教えられたのが親鸞聖人と思われるかもしれませんが、お二方共に、真実信心一つを明らかにされたということです。