安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心の沙汰とは何を沙汰するのか?

忙しさにかまけてしばらくお休みしておりました。
信心の沙汰について前回書きましたが、その後思うところをまた書いてみます。

聞き誤りを正す場が信心の沙汰でありますが、「聞き誤りを正す」ということを聞き誤っている人が多いのではないかと思い、今日はその点について、書きます。


「聞き誤りを正す」=「記憶間違いを正す」ではないということです。

確かに、記憶間違いは聞き誤りに違いありませんが、それがすべてとなれば、単に記憶がいい人=仏法のわかった人となってしまいます。

では、善知識といわれる人は確かに大学者でありますから、記憶力も常人より優れていたと思いますが、弥陀に救われた人はすべて記憶力のよかった人ということではありません。
こういうと、「記憶力で救われるのではない」といわれる方もあるでしょう。確かにその通りです、弥陀に救われる人が、その求道において、記憶力がよかったから、続けて聞法を重ねていったのではないということをいいたいのです。

確かに年齢の若い人で、記憶力のいい人は多くあります。ご法話を聴聞した後、驚くほど正確に覚えている人がありますが、覚えている=理解したには必ずしもならないのです。

確かに、理解しなければ覚えることはできないのが普通ですが、間違った理解でも理解は理解ですから、それで覚えることができるともいえます。

聞き誤りを正すというのは、記憶間違いであることも多いかもしれませんが、問題はなぜ記憶間違いをしたのかということです。
根本のところで、「こうなっているはずだ」という、自分の思い込みが働くからです。本当の意味で仏法のわかった方は、言葉の記憶は多生曖昧でも、絶対に間違えられないという部分があります。

記憶力のいいはずの、聴聞録にこまかく字を書いている人と話をしてみると「どうしてそんな風に聞いているのか?」と不思議に思うほど、理解が違う人にあうことがあります。

信心の沙汰とは、「どう聞いた」という沙汰なのですが、その目的は、そのように聞いたその人の「信心」について沙汰をする場なのです。

互いの記憶を確認して、安心していてはそれは「記憶安心」という安楽椅子です。覚えることが意味がないと言っているのではありません。仏法を聞く目的は、弥陀の救いにあうことなのですから、記憶をするためにいっているのではありません。

平生の弥陀の救いにあうために聴聞をするのです。沙汰をするのです。その目的をややもすると間違えてしまいがちだということなのです。

わが「信心」はひとの「信心」は如何あるらんという信心沙汰をすべきようの会合なるを

と蓮如上人が言われているとおりです。
「記憶」の沙汰なら、結論は一つしかありません。ビデオご法話だったら、次に聴聞する機会があれば、そこを改めて聞けば話は終わりです。

極端な話をすれば、映像記録があれば、「あのときどういわれた」という事実を沙汰すること自体意味のないことになってしまいます。記録さえあれば一人でもできます。

なぜ蓮如上人が

「せめて念仏修行の人数ばかり道場に集まりて」

と、集まって信心の沙汰をしなさいといわれるのでしょうか?

記憶間違いがわかっただけでは、仏法の間違った理解は正されないからです。しかも人間はうぬぼれ強いために、自分の聞き誤りにはなかなか気がつきません。これは、先輩になればなるほど、年数を重ねれば重ねるほど、よりいっそう強固なものになっていきます。
間違った理解は、その人を安楽椅子に座らせます。その安楽椅子を壊していただくのが聞法の場ですが、それで壊れる人は本当に仏縁深い人だと思います。
「俺はわかっている」の椅子にふんぞりかえって仏法を聞いているから、心の頭を下げるどころではありません。だからこそ、信心の沙汰の場で、自らの信仰を人に言わねば、その間違いは誰にも正されないのです。

あくまで、個々人の「信心(信仰)」の沙汰をする場なのです。