安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

逆の方向に真実があるとはどういうことか?(よこやりさんのコメントより)

よこやりさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

わたしも最初は「行きたくない。でも行かねば!」「やりたくない。でもやらねば!」という感じでした。
今は、「聴聞に行きたい。勤行をやりたい。」の気持が先で、聴聞を選ぶと色々(仕事やら人間関係やら)犠牲にするものも出てくるけれど、身体はひとつなのでやむをえないと思います。
勤行は、阿弥陀仏の前で親鸞聖人と直接ご縁を頂ける、一日で一番尊く貴重な時間だと思います。
私は「本当にここひとつ」となってはいないですが、そういう人にとって聴聞や勤行は、大変な喜びなのではないか、と勝手に想像しています。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090212/1234396073#c1234446119

コメントに対して、よこやりさんの質問

「逆の方向に真実がある」とは、どういうことですか?
具体的に書いて頂けると助かります。
(よこやりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090212/1234396073#c1234480244

コメントの引用が長くなりましたが、よこやりさんのコメントについて回答致します。
聴聞や、勤行など「行きたくない、でも行かねば!」「やりたくない。でもやらねば!」という気持ちから、現在の自分は「聴聞や勤行は大変な喜び」だと言われています。

仏法に出会った喜びというものは、大変素晴らしいもので、これは喜びすぎると言うことはありません。

まず三悪道を離れて人間に生るること、大なるよろこびなり。(源信僧都・横川法語)

と、源信僧都が言われているのも、人間に生まれなければ仏法を聞くことができないからです。
そういう意味で、仏法を聞くことができる、朝夕勤行をお仏壇の前ですることに喜びがあるということについては、その通りだと思います。

その喜びの心が大きくなったのが、阿弥陀仏に救われた喜びではないのです。
その違いについては、御文章に蓮如上人が教えておられます。

古歌にいわく、『うれしさを昔はそでにつつみけり、こよいは身にも余りぬるかな』。『嬉しさを昔は袖に包む』といえる意は、昔は雑行・正行の分別もなく、『念仏だにも申せば往生する』とばかり思いつるこころなり。(御文章1帖目1通・或る人いわく)

弥陀に救われる前と後の「うれしさ」について、書かれたものです。
阿弥陀仏に救われる前は、袖に包むようなうれしさだった。それが、阿弥陀仏に救われた現在は、身にも余るような喜びだといわれています。
阿弥陀仏に救われる前の、袖に包むという喜びはどういう心かというと、何が雑行か、正行かの違いも分からず、捨てるべきものは何か、自力とは何か分からず、従って、どうすれば弥陀に救われるのかと言うことも分からず、ここ一つという心もなく、「念仏さえ称えていれば、仏法を聞いておれば、朝晩勤行しているから、そのうち助かるだろう、弥陀の浄土に生まれられるだろう」と喜んでいることなのだ。

 『今宵は身にも余る』といえるは、正雑の分別を聞きわけ、一向一心になりて信心決定の上に、仏恩報尽の為に念仏申すこころは、おおきに各別なり。
 かるがゆえに、身の置きどころもなく、躍り上るほどに思うあいだ、よろこびは身にも嬉しさが余りぬると言えるこころなり」。 (御文章1帖目1通・或る人いわく)

阿弥陀仏に救われた後の、「身にも余る喜び」とは、何が雑行で何が正行か、自力がなにかをハッキリと知らされ、阿弥陀仏に救われて信心決定の身になった上で、お礼の心で念仏を称えるのは、まったく違う喜びです。
身の置きところもなく、躍り上がるほどに思うから、喜びは身にも余るというのはそういう意味であると言われています。

弥陀に救われる前の「袖に包む」喜びから、信後の「身にも余る喜び」を想像し、勝手に救われた世界を作り上げていくと、「喜べるのが真実信心」と思ってしまいます。
蓮如上人は「おおきに各別なり」といわれているように、「袖に包む」のと「身にも余る」のは、量的に違うのではなく、「各別」ですから「まったく別物」なのです。
ことばでは「喜び」とか「うれしさ」としか言えませんから、同じように思いますが違います。
ですから、弥陀に救われる前に「喜べるのが真実信心」と思う「喜び」は、目指すものがちがいます。
「ありがたいなあ」「とうといなあ」と思う心が育って、大きくなって「身にも余る」のではないのです。
反対に「喜べるのが真実信心」と思う心、「喜べたら」「喜ぼう」という心は捨てねばならない心です。なぜなら、弥陀の救いに条件をつけているからです。
「阿弥陀仏にすくわれたらこうなるはず」「ああなるはず」と、救いを想像して、それに当てはめようとする心ですから自力です。それは捨てねばなりませんから「逆の方向に真実がある」とコメントされたのです。