安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便とは、如来の善巧方便ということ(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ

コメント有り難うございました。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080716/1216208121#c1216253377

ただ単純に「未信の者が方便を論ずることはできない(難しい)」と教えられた聖人のお言葉をお示しください。

そういう御文で、よく皆さんが知っておられるのは
「更に親鸞珍しき法をも弘めず、如来の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり。」
御文章に出てくるお言葉ですが、「我も信じ」ているからこそ、「人に教え聞かしむる」ことができるのです。

そこで、議論を続けている間に、「未信の者が方便を論ずることはできない(難しい)」ということについて、考えてみました。

私は、元々、真が分かって、仮が仮と知られるのであって、真も仮も分からないものが、どうして真仮を説くことができるでしょうか。ということで、以前のエントリーに書きました。色眼鏡をかけた者どおしで、本当の色をみることはできません。

それを、元自称福徳会員さんはコメントで、

「未信の者は方便がわからない」とダイレクトに教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。

といわれています。上記の親鸞聖人のお言葉でどのように思われるでしょうか。

「未信の者は方便がわからない」は、逆に言うと「信を獲た人は、方便を論ずることができる」ということになってしまいます。

逆の表現でいうと、必ずしもそうは言えなくなってしまいます。
信心決定したら、何でもかんでもわかるようになるものではありません。
人を導く(方便を論ずる)ということでも、絶対に間違いなく、正確にできるかと言えばそうでもありません。

親鸞聖人でさえ、「我誤てり、われあやまてり」と仰有っています。
真実信心を獲た方であっても、その後の布教において惑われることはあります。

真実信心を獲ている人でも、正確な教学のない人はまた、方便を必ず相手に分かるように、論ずることができるわけでもありません。信心をえたと言われている、庄松同行や、お軽同行が、真仮をハッキリと相手に分かるように方便を論じていくことができたわけではありません。

やはり、方便という言葉自体の使い方に、人間が説法することにつけたのは、私の間違いであったと思います。
元々、親鸞聖人が方便といわれるときは、「釈迦弥陀の善巧方便」であって、如来のなされることなのです。

真実信心を得ているから、自在に方便が論じられるようにいうのは、言い過ぎた表現であったと思います。

人を信仰の道から遠ざけるようなものは、結果として方便とはいえないのですから、また事実、仏法聞くことをやめられる方があるのも事実です。

では、元自称福徳会員さんは、方便について本当のことはどのように思っておられるのでしょうか。分かる範囲で教えていただきたく思います。

宜しくお願いいたします。