安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

教義は、お聖教にあるもの(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ
コメントを頂き有難うございました。
(全文はこちら 
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080809/1218236880#c1218282737

日本に帰ってこられたとのことで、お帰りなさい。

以上のことから以下に結論付けさせていただきました。
・「高森教のために人集め・金集めをすれば、やがて19願の軌道に乗せていただける」と言うのは親鸞聖人のみ教えにはなく、あくまで高森教の教義である。

もちろんそんなことを言えば、浄土真宗の教えではありません。
そんなことを言う人もあるようですが、日頃の御法話等では、そのように聞いたことはありません。

親鸞聖人は
「諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆえに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり(浄土和讃)」

と教えておられます。
「往生浄土の方便の善」となるのは、「至心発願せるゆえに」とあるとおりで、あくまでも阿弥陀仏の願力のはたらきによるもので、「人集め、金集めをすれば、19願の軌道に乗せていただける」といわれているのではありません。

ただ、そう思っていない人の存在までは否定しません。

・親鸞聖人のみ教えと高森教のGapを聖人のお言葉で埋めることができないので、本来は別の意味で書かれた「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」のお言葉を根拠とし、「未信のものは方便は分からない」と高森教では教えている。

そのように思われるかたもあるでしょうが、真実わかってこその方便です。

以上の結論に対し山も山さんの反論(あるいはその他の方のご意見・反論)を待ちます

反論といいますか、「高森教」というものは、私は本来あってはならないという立場です。
親鸞聖人のみ教えと、違っていたら「浄土真宗」親鸞会という看板は下ろさねばなりません。

財施や破邪顕正を、救いと関連づけて、「○○したら、早く救われる」という説き方は、親鸞聖人も蓮如上人も言われていないことです。

元自称福得会員さんの、納得できるような言い方をするならば
「善を捨てよ」(もちろん、悪にほこれば救われるという意味ではありません。念のため)
歎異抄のお言葉で言えば
「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」
と言われているとおりです。

上記のようなお言葉から、浄土真宗は悪人製造の教えといわれてきました。

誤解を正すと言うことは、「悪人製造の教えでない」と強調することになりますが、それが結果として「善往生」が親鸞聖人の教えだと、誤解する人が出てくることもまた事実です。

教義と、その団体にいる人間との間にあるギャップというのは、歴史が長くなればなるほど大きくなる傾向があります。

かの本願寺にしてみても、「念仏唱えたら助かる」と本気で思っている勧学はいないでしょう。
しかし、全国にあるたくさんの末寺や、末寺の住職がご門徒の皆さんに言う言葉には、「念仏唱えたら死んだら極楽」と言う人が現実問題としています。また、兼業の住職の中には、そういう人も多いです。

そういった構成員の言動をもってすべてを判断することはできません。
「末寺の住職の教えの理解」=「本願寺の学者の理解」ではないからです。

教義とは、あくまで親鸞聖人の書かれたものにあるものが、教えであって、「構成員の言動=教義」なのではありません。

そういう意味から言うと、「高森教」といって高森先生が説かれたことはありませんが、「高森教の信者」というべき思考形態をとっている人がいないとはいいません。
ただ、そういう人の言動をとらえて「高森教」というものがあるかのようにいわれるのもわかりますが、実際そういう教えがあるわけではありません。

最初の、「金集めをすれば、19願に乗れる」という教えがあるのかということでいいますと、そういうことがテーマで書かれている「本願寺なぜ答えぬ」をあらためて読んでみると。

どうすれば、晴れるのか。どうなったら、満足できるかと、前進せずにおれないままが、誘引されてる、相である。
 やがて、弥陀の狙いの十八願、無碍の一道まで、誘導されるのだ。(本願寺なぜ答えぬ)

とあります。

願力に誘引されてのことで、私が何か特別なことをした結果が、救われるのではありません。

布教形式や、説き方には、常に功罪があるのは確かです。
ただ、何がよかったかということについては、現状ではなんとも判断しかねます。

ただ、こういった議論は大いにやらねばならないことですし、その目的は、相手を打ち負かすことではなく、一人一人の信心決定の上で大事な問題を含んでいるからです。

私個人としては、間違ったところは教えていただければ有り難いですし、元自称福徳会員さんには、早く弥陀の救いにあっていただきたいと思います。