安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真実わかった上での方便(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんのコメントより
全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080707/1215425967#c1215494291

そこで、方便というのは、あくまでも説かれる方から言うことであって、仏法を聞いている方で、あれこれ言うものではありません。

なぜなら、方便(仮)が方便と分かるのは真実(真)が分かる人であり、逆から言うと、救われる前は、何が方便で何が真実かははっきりと分からないのです。

何が方便かということが分からない人が、方便を論ずるということは、本来は出来ません。導く先(真実)が分からないのですから。

「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)


http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080615

これは、6月15日付けのエントリーで私が書いた文章です。

それに対して

しかしながら、あくまで親鸞聖人のお言葉を通してであれば未信の者も方便を論ずることはでき、しかも悪いことではない。

また、「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)のお言葉は、「未信の者は方便を論ずることはできない」という根拠にはならないということでよろしいでしょうか?

という意見です。

結論から先に言いますと、すべてには同意できません。

まず、ここで言う方便とは、阿弥陀仏がなされる方便です。この方便をされるのが阿弥陀仏である以上、阿弥陀仏ご自身でなければわからないものですし、使うこともできません。

方便とは、真実に近づけるために必要なものですから、近づけさせる真実が分からないと方便を使うことはできません。その真実も、阿弥陀仏の本願(真実の願、十八願)でありますから、阿弥陀仏でなければ分かりません。

その阿弥陀仏の御心、本願の真仮を知られた、善知識方(釈尊を初めとした、七高僧、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人)は、常に真(真実)と仮(方便)を明らかにして教えて行かれました。

ですから、親鸞聖人のお言葉を、教え通りに忠実にお伝えするのであれば、未信であっても、真仮を明らかにすることができます。
自己の信仰を語るのではなく、親鸞聖人の「教え」を論ずるのでありますから、「教え」を伝えるままが、真仮を明らかにすることになるからです。もちろんそれは悪いことではありません。

しかし、「親鸞聖人のお言葉を通して、正しく伝えれば」という、「正しく伝える」だけの、教えの正確な理解があるというのが大前提です。
自分勝手に教えを理解し、「これが方便だ」と、分かったつもりで方便を論じられては、真実も分かりません。また、何か別の目的で、破邪顕正や、財施をする口実につかうような人がもしあれば、それはとんでもない誤用です。
「ウソも方便」という言葉もありますが、真実わからぬ、しかも教えに昏いものが使えば単なる「ウソ」になってしまいます。また教えに昏いと、その自覚もなくやってしまいますから、そうなれば間違いです。
実際はどうなっているのかまでは、ここでは論じません。

未信の立場であるならば、自分は本当は真実が分からない、求めておりますから、親鸞聖人に教えていただくという立場ならばいいのですが、真実分からないという事実はさておき、真実はこうであると「分かったつもり」で、動き始めるとおかしなことになってしまいます。

親鸞聖人のお言葉には、間違いなく真仮が書かれてあります。それを伝える者が、勘違いしたり、曲げてはならないのです。

「教えを正しく理解している」人なら、論じることはできます。

とはいえ、本当に真実が真実と分かってなければ、方便と真実の関係はわからないので、

また、「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)のお言葉は、「未信の者は方便を論ずることはできない」という根拠にはならないということでよろしいでしょうか?

これが、根拠にはならないとは言えません。

御文自体は、「未信の者は方便を論ずることはできない」と言う意味なので、私が6月15日に書いたエントリーにも「本来はできない」と書いたのはそのためです。


繰り返しになりますが、では絶対にできないのか?と言われれば、善知識方のお言葉を通して論じることはできるでしょうが、教えが正しく理解できていればと言う前提の上での話です。