安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

未信のものに「真仮のわからぬもの」と断言された親鸞聖人(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんへ
コメント有り難うございました。

全文はこちら(http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080717/1216296401#c1216315683

返信が一日遅くなり、申し訳ございませんでした。

故聖人のおほせには親鸞は弟子一人ももたすとこそおほせられ候ひつれ。そのゆへは如来の教法を十方衆生にとききかしむるときは、たゝ如来の御代官をまうしつるはかりなり。 さらに親鸞めつらしき法をもひろめす、如来の教法をわれも信しひとにもをしへきかしむるはかりなり。そのほかはなにををしへて弟子といはんそとおほせられつるなり。されはとも同行なるへきものなり。これによりて聖人は御同朋御同行とこそかしつきておほせられけり。

「更に親鸞珍しき法をも弘めず」のお言葉の前後の文章を入れてどう思うか、ということでしたので、お答えします。

親鸞聖人は、上記の御文章のように「俺は偉い、つべこべいうな」などという、指導者、独裁者のような方ではありませんでした。
阿弥陀仏の前では、万人は平等であり、その救いを求めている人は、「御同行、御同朋」と、「御」の字までつけられて、同じ道を行く同志であり、兄弟であると仰っています。自己の姿を知らされれば、そんな偉そうにできるものではありません。
これは、自分の姿を知らされた上での、親鸞聖人の正直なお気持ちだと思います。

まずは「未信の者は方便がわからない」とダイレクトに教えられた親鸞聖人のお言葉をお示しください。
また、再度、コメントいただく際は、貴殿や高森先生のお考えではなく、親鸞聖人・蓮如上人のお言葉を示した上でお答えください。

前回のコメントでも、

この言葉の中に真仮は出てきませんし、方便を論ずることもおっしゃられていません。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080716/1216208121#c より)

と頂きましたので、真仮というお言葉を使われた上での親鸞聖人のお言葉を出しますと


「然るに、諸寺の釈門、教に昏くして、真仮の門戸を知らず。洛都の儒林、行に迷うて邪正の道路を弁うることなし」(教行信証化土巻)


と親鸞聖人は仰っています。

「未信のものは真仮がわからない」
「真実信心を得たものは、真仮がわかる」ということで、親鸞聖人は、「諸寺の釈門」(日本中の僧侶)に向って、「真仮の門戸もわからぬもの」と断言されています。

未信のもの(諸寺の釈門)は、真仮がわからない(真仮の門戸も知らず)と、親鸞聖人は仰っています。

真仮がわからなかったらこのようにいわれる道理はありません。これは、法の立場から仰ったものです。「一段高いところに立って」威張っておられるのではありません。法の上からいえば、「三界の大導師」であり「如来の代官」なのです。

如来の代官というのは、文字通り代官で、尊いのは如来であり、代官が偉いのではありません。

機からいえば、「御同朋」の精神の親鸞聖人ですが、法の立場からいえば、相手かまわず、「真仮もわからぬもの」「邪正もわからぬもの」と、断言されています。このようにいわれるのも、真実信心を獲られてから、振り返って方便が方便と知らされたからであり、未信の時は、方便が方便と分からなかったというご自身の体験からもいわれているのです。

私自身も、別段自分の考えで、「未信のものは方便を論じられない(難しい)」といっているのではありません。
もちろん、真仮が分からぬのに、いかにも真仮が分かったように、思い込み、人をミスリードするものがあれば、それは大変なことです。真仮が分からないのに、いかにも分かったように相手を見下すのは、真仮が分かっていないのです。

真仮を論じるのは、如来から頂く南無阿弥陀仏の働きによるのであって、自分が偉いからではありません。

真仮を明らかに知られ、真仮を明らかにされた親鸞聖人だからこそ、その教えに従うのみです。私自身の考えを入れるつもりはありません。

最後に方便についてお答え頂きましたが、

「19願や20願、聖道諸経は方便」と信じて求めさせていただかないといけないと思います。

について

「信心決定したら、何でもかんでもわかるようになるものではありません。」ですので、方便がわかる・わからないということではなく、親鸞聖人が方便と教えられたのならば方便と信じさせていただくということです。

この「方便と信じて」というのは、「この通りに進めば18願(真実)に出られると信じて」ということでしょうか?

またお尋ねしますが、宜しくお願い致します。