ななしさんから頂いたコメントに、ついてお答え致します。
「自力が廃ったかどうか」
自力が廃るとは、どういう時に廃るのですか?
それは、万人にも分ることですか?
山も山さんだけの事ですか?
そこのところ、もう少し教えて下さい。
(19願の行者について(元自称福徳会員さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)・コメント)より
まず、「自力が廃るとは、どういう時に廃るのですか?」というご質問ですが、
二通りの質問だと考えられます。
一つ目は、「私が何か行為をしたら廃るのですか?」という質問でしたら、「自力は、どうすれば(これも自力)廃るんですか?」という質問になってしまいます。
言い換えますと
「自力で自力は廃りますか?」という質問だとしますと、
自力で自力は廃りません。
そこで、二つ目、「どういう時」に廃りますか?という質問に対して、お答えとしては、「弥陀に救われた時」に廃ります。
歎異鈔第一章で言えば、「自力が廃った」=「摂取不捨の利益にあずかった」ということですから、
歎異鈔第1章には、いつ、どうなった時に、摂取不捨の利益にあずかるのかというと、
「弥陀の誓願不思議に助けられ参らせて、往生をば遂ぐるなり」と信じて、「念仏申さんと思い立つ心のおこるとき」
に、救われるといわれている通りです。
それは、万人にも分ることですか?
山も山さんだけの事ですか?
これは、弥陀に救われた人は、万人共通して分かることです。だれか特定の人だけ分かることではありません。
親鸞聖人が
誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法(教行信証)
と、叫ばれているのも、親鸞聖人だけにわかることではないのです。
弥陀に救われたならば(自力が廃ったなら)誰にでも、火のように分かることなのです。
弥陀の救いは、救われたのか救われないのか分からないようなものではありません。