安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

方便とはどういうものかについて(元自称福徳会員さんのコメントより)

(元自称福徳会員さんのコメント 2008/06/15 06:27)より
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20080612/1213275382#c1213478836

19願の願意は18願の世界に出させる為の方便であると言うのはお互い、共通の認識だと思います。ですので、方便と言うことを考えて見ましょう。

方便とは何かということについて、今回は書いてみたいと思います。

まず、元自称福徳会員さんは以下のように言われました。

たとえば、重病で大手術をしなければいけない人がいたとしましょう。
(以下省略)

そこで、方便とはなにかということですが、あくまでも真実に近づけさせるために必要なものであって、真実に入るかどうか、縦の線を突破して、18願の世界に入れるかどうかは、方便ではなく、真実によります。

そこで、方便というのは、あくまでも説かれる方から言うことであって、仏法を聞いている方で、あれこれ言うものではありません。

なぜなら、方便(仮)が方便と分かるのは真実(真)が分かる人であり、逆から言うと、救われる前は、何が方便で何が真実かははっきりと分からないのです。
何が方便かということが分からない人が、方便を論ずるということは、本来は出来ません。導く先(真実)が分からないのですから。

「真仮を知らざるによりて如来広大の恩徳を迷失す」(教行信証)

三願転入の御文も、救われた後に振り返って、三願転入であったと知らされ、親鸞聖人もそのように振り返っていわれたお言葉であって、救われる前にそのように、今自分は、19願、今自分は20願というように分かるものではありません。

そういう認識で元自称福徳会員さんもおられると思いますが、書かれている文章を見ると、「説く立場」と「聞く立場」の視点どちらから論じられているのか、視点があちこちと混ざっているようです。

そういう点から言うと

方便を方便と教えるのは方便が不要になったとき・邪魔になったときと考えます。

聞く立場から言えば
「方便を方便と知らされるのは、方便が不要になったとき(真実に入った時)」です。

また、説く立場から言うと
「方便は、真実が毛頭分からない相手に、導くために相手に分かる範囲で説くものであって、あくまで真実に入る前のことです」

イダイケに向かって、「これから説くことは今救われる18願に入れるための方便だよ」と言われているでしょうか?そのような導き方で本気で取り組もうとする人が現れるでしょうか?

これについてでも、あくまで目的は18願です。18願が目的地で、それをハッキリ説いた上で、それに向っていく人が、19願に誓われている願力で進ませて頂くのであって、19願の往生を目的に、19願にいわれる諸善を実行してみようと思っている人、まだ19願の軌道には乗っていない人です。

韋提希夫人の話がでてきましたので、釈尊は「弥陀の浄土に生まれたい」と願いを起こさせられた韋提希に対して、観無量寿経での善を進めておられます。
「浄土往生」させるのは、18願の願力によるものです。
浄土往生するには、18願の世界に出させなければなりません、その目的(18願)をハッキリ示した上で、観無量寿経での善を勧められているのであって、それによって、韋提希夫人は真剣に教えに従おうとしています。
19願で誓われている臨終来迎を目的にして、それを相手に伝えて善を進めておられるのではありません。

つまり、19願を引き合いに出し、善を勧める・求めるのであればあくまで目的は19願で説かれている往生を勧める・求める必要があると思います。しかし、これで
は真宗になりません。

もちろん善をしたら助かるというのは浄土真宗ではありません。

18願の目的を指し示しても、そこに向って真剣に進んでいる人も、救われない間は、心の底は「臨終来迎」しか分かりません。「一念往生」は体験しないと分からない世界だからです。
そういう意味で、弥陀に救い取られた親鸞聖人が振り返って「雙樹林下之往生の心を離れ」と言われているのです。
あの時は、「雙樹林下之往生の心」しかなかったな、と言われているのです。

「19願は方便であると知った上で、18願の救いを求めて財施や破邪顕正を行う・勧める」のは真宗の教えでもなければ19願の教えでもないと思います。19願の入り口にも入っていないのは至極当然かもしれません。

「 」の部分を未信の人がいったなら聞き間違いですね。
『方便であると知った上で』、とありますが、方便が方便と知らされるのは、あくまで真実知らされた(救われた)ときのことで、「方便であると知った上で」というように思っている人は、方便も真実も何も分かっていないということを自ら告白しているに過ぎません。なので『方便であると知った上で』以降の文章は、まったく意味をなさなくなってしまいます。

これは全く真実を説く立場の話であって、未信の行者がいうのはそれこそ親鸞聖人、阿弥陀仏の頭の上に立っていることになります。

方便を「論ずる」というのは、そういう点で説く立場でない方向からはなかなか難しいものです。

私自身は18願の救いを求める気持ちが出てきたと自覚していますので、19願を引き合いに出し、善を勧められる・求める必要はなくなったと思います。

信心決定しよう、平生に往生治定の身になろう、という心で、求める人は、皆18願の救いを求めている人です。
元自称福徳会員さんは、仏法を聞き求めておられるのですから、18願の救いを求めているに違いありません。

ただ、現在の心がどのようなものであるのかということです。
19願の願力の軌道に載っているときは、以前も書きましたが、「発菩提心 修諸功徳」とな利増す。

一時も片時も急いで信心決定しようという心がおこされた時には、善で助かるとは教えの上では知っていても、なにかせずにおれなくなります。
「急作急修して頭燃を灸うが如くする」というのは、そういう心境なのです。
その時に、何が問題になってくるのか、というのが、「雑行雑修自力の心」であり、その心がどうすれば廃るかと、あちらこちらと真剣に考え、どうしたらどうしたらと行にすがろうとするのが、19願の行者の心です。振り返ればそう知らされます。

弥陀に救い取られた時に、振り返って、あのときは19願の願力で引っ張られていたのだなと分かる時が来ると思います。

信心の沙汰とは、蓮如上人が言われている通り

「信心を取りたるか、取らざるかの沙汰」

であり、信疑の沙汰です。
救われるかどうかは、信疑決判で、疑情(自力の心)が廃ったかどうかで決まります。

そういう沙汰ならば、同行にしろ、布教使にしろ、18願の世界にでた人でなければ、導けないのは、「知識は針の如し、同行は糸の如し」と言われる通りです。