安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「自力一杯求める」という意味(orimaさんの質問)

orimaさんよりメールをいただきました、有り難うございました。

(中略)
「(顕正などを)やっていけば、(やがて)何か知らされることがあるのです(何が知らされるのかは言われませんでした)」「自力一杯求めていかなかったら、自力間に合わなんだと知らされて助かるということはない」と言われました。

只今救われようとして、上のような目標を立てて頑張ろうということは大事なことなのでしょうか?

只今救う本願に只今救われようと向かっているつもりなのですが、上のように色々聞くと、どう求めたらよいものかと考えてしまいます。

大変大事な質問だと思います。

目的さえ間違わなければ、自分なりに目標を立てて頑張ろうとすることは大事なことです。

まず、顕正などのいろいろな人に仏法を伝えていくような活動をすれば知らされることがいろいろあります。実際にやらねば知らされないこともたくさんあります。

ここで大事なことは目的です。私たちが親鸞聖人のみ教えを聞く目的は、「信心決定」の身に、現在ただいま救われることです。上記の言葉ですと「何か知らされることがある」ので、それを知るのが目的で、人に仏法を伝えているかのように聞こえます。
では、「何を知る」ために仏法を人に伝えると言うことなのかは、この言葉だけではわかりません。

次に、出てくる言葉が「自力いっぱい求めなかったら、自力間に合わなんだと知らされて助かるといことはない」というのも、これ単独で使う分には、問題ないのですが、先ほどの、「やっていけば知らされる」と続けて聞くと、聞いた人はどうなるでしょうか?

「やっていけば(自力いっぱい求めていけば)、何か(自力間にあわなんだと)知らされて助かる」と言っているように聞く人があっても不思議ではありません。

といいますのは、「自力一杯求めなければ」と言った場合の「自力」というのは、単に「何か仏法のことで体を動かすこと」をさして言われたものではないからです。

「自力一杯求めなかったら」というのは、言葉を換えますと「どうしたらこの自力の心が廃るのだろうか、どう思ったら、どう聞いたら、この後生暗い心が晴れるのだろうと、狂い回って求めなかったら」という意味です。
そんな自力の心どうしたら廃るかと苦しんだ人、後生暗い魂に泣いた人でなかったら、どうしたら廃るのかと思う心も、間にあわなんだと廃ったこともないし、救われたと言うこともありません。

「ただ今救われよう」「どうしたら自力の心が廃るのか」「なにか善に励めば」「人に仏法を伝えたら」どうしたらどうしたらという心の人は、言われなくても善根を求める心は強く表れてきます。

これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章4帖目3通・当時世上)

御文章に蓮如上人が言われているとおりです。「老少不定と聞くときは」とは、「後生に驚きが立った人は」という意味になります。また「どうしたらこの後生暗い心の解決ができるかと、驚いた人は」と言うことになり、そういう人は「急ぎ、いかなる功徳、善根をするようになりますし、いかなる菩提・涅槃をも願うよう」になります。

人に仏法をお伝えすると言うことはとても大事なことですし、私も一人でも多くの人に阿弥陀仏の本願まことを知っていただきたいと考えています。

我が身の大事と言うことと、現在ただ今救うのが弥陀の本願であるということを常に忘れず、その一点がずれなければ問題はありません。
「自力の心に苦しむ人が、いかなる善根功徳を修める」のであって、「いかなる善根功徳を修めたら、自力の心に苦しむ(やがて救われる)」と言うことではありません。

目的はあくまでも、現在ただ今弥陀に救われることであって、善に励むのが目的ではありません。あえていえばそれは手段です(もちろん善をすればその善根功徳で救われるという意味ではありません)また、自力に驚くことが目的ではありません。現在ただ今弥陀に救われようと、真剣に弥陀の本願に向かった人には必ず出てくるのが自力です。
自力を追って自力が出てくるのではありません。

orimaさんの言われるように「現在ただ今、一念で救う」と誓われた弥陀の本願に真剣に向かって、現在ただ今救われてください。