安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

19願の行者について(元自称福徳会員さんのコメントより)

元自称福徳会員さんからの質問です。

2008-06-05のご回答に対する同意できない点の2つ目です。同意できないと言うより、確認したい点、と言うほうが適切かもしれません。
(中略)
加えているところ、削っているところがあります。私の理解に間違いがないか教えてください。

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19願は臨終現前の願と言われるようにあくまで救いは臨終来迎です。したがって、『狭義の19願の行者にとって「今が後生となったならどうしよう」、「今救われるにはどうしたらいいか?」と、深刻な問題になってくる』とは思いません。また、諸行往生といわれるように、諸善を行って救われるという願ですので「雑行雑修自力の心」が見えてくるとか、ましてや邪魔になってくるものではありません。
「雑行雑修自力の心」が見えて邪魔になってくるのはそのまま救うと言う18願の救いを求めるからです。佛願の生起本末を聞き、「悪しかできず、一息切れたら後生。自分のやる善は少しも間に合わない」と頭では理解できても、「それではどうしたら『雑行雑修自力の心』が廃るのか?」「『財施や破邪顕正をすれば早く救われるのでないか』という思いが離れきれない」と問題となってきます。このような人を広義の19願の行者と言えるでしょう。ただし、これはあくまで救われて振り返った時に、あのときは19願にいたなと知らされる。

※狭義の19願の行者=まことの善を行い、臨終来迎を求めている者 に訂正

まず、狭義の19願の行者、広義の19願の行者という言い方でありますが、私の方としてはあえて区別してはおりません。

19願は、何の為に建てられた願なのか。ということから言えば、19願の願意は、18願の世界に出させる為以外にありません。

目的が大事という話は、高森先生のご法話を聞かれた方ならいつも聞かれていると思います。タクシーに乗る時にもまず目的地が最初にくるなどなど。

阿弥陀仏が48願を建てられた御心は、あくまで18願であり、18願の世界に出させてみせる、救ってみせるというお約束です。

ですから、19願単独で、「これは諸善をしたら助けるという願だから」という見方はしておりません。
18願で、信楽の身に救うと誓われながら、「なぜ善を勧められたのか」という観点から、今まで書いてきました。

ですから、19願の行者と言っても、振り返っての話ではありますが、あくまで三願転入の道を進んでいる行者ですから、目的地はあくまでも18願です。
19願に誓われている臨終来迎が目的ではありません。
18願の目的地に向っての、手段が19願なのであって、手段が目的になるのではありません。

未信の方で、
「自分は19願の臨終来迎を目指して仏法を聞いている」
という人はないと思います。
いくら、振り返ってみれば19願にいたと言ってもです。目指す目的は18願の救いです。

さて、私の考えでは、広義の19願の行者にとって、「財施や破邪顕正をすれば早く『雑行雑修自力の心』が廃る・早く救われる」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。また、「財施や破邪顕正をすることにより、『雑行雑修自力の心』が見えてきて、邪魔になってくるとだろう」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。そのようなことをすれば、むしろ、今生で救われるためになる(次の生での宿善になるかもしれませんが…)。なぜなら、善をやること自体に心の目が奪われ、『雑行雑修自力の心』をみることに、目がいかないからである。ただし、因果の通りを知らされている仏法者が善を行うことは当然であり、善を行うことを否定するものではない。

なお、狭義の19願の行者とは浄土宗の信者、広義の19願の行者は正しい求道過程の真宗の信者と言えるでしょう。

そこで、元自称福徳会員さんのいわれるところの「広義の19願の行者」についてですが、

財施や破邪顕正をすれば早く『雑行雑修自力の心』が廃る・早く救われる」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。

これについてはその通りです。
言葉を変えて言うと
「財施や破邪顕正の善をすれば、それが間に合って救われる」と思うのも、進めるのも間違いです。それでは「諸行往生」になってしまいます。

また、「財施や破邪顕正をすることにより、『雑行雑修自力の心』が見えてきて、邪魔になってくるとだろう」と思って行うのは誤りであるし、そのように勧めるのも間違いである。

行者がそのように思って行うのは誤りですが、そのように勧めるのは完全に間違いとは言えません。

信心一つと言っても、その信心とは、真実信心なるが故に、全く知らないものには縁も手がかりもありません。「不可称不可説不可思議の信楽」なのですから。
そういう全く知らないものに対しては、19願を出す以外方法がありません。

当然、財施などの善と救いは関係ないんですが、関係ないことに気づくのか気づかないのかの一点で、気づかない人が圧倒的と言ってもいいです。
気づく人はまさに稀有人といっていいでしょう。

「善悪の判断くらいできる」と、信じ込んでいる人に、「善悪を離れた世界」へ導くには、「じゃあやってごらんなさい」と言うしかないんです。

なんども書きますが、そうやって財施などの善を勧めるのも、あくまで「関係ない」という世界に導くためであって、その財施などの善で救われると教えているのではないということです。

なぜなら、善をやること自体に心の目が奪われ、『雑行雑修自力の心』をみることに、目がいかないからである。ただし、因果の通りを知らされている仏法者が善を行うことは当然であり、善を行うことを否定するものではない。

これについては、自分の行為に心を奪われ、救われるか救われないかについて関係するただ1つの的である「雑行雑修自力の心」にむかないのは間違いです。

手段が目的に変わってしまいやすい人間の自性なのだと思います。
目にも見えない、善悪を離れた信心の世界には心も言葉も及ばれないので、どうしても目に見える、自分のわかる「いろいろな善といわれるもの」が手段から目的に変わってしまうのだと思います。

だからこそ、親鸞聖人の教えでは、まず最初に目的地を示して話をされるのです。
縦の線と横の線を書かれても、最初に説明されるのは、縦の線の左側(目的地)です。
「ここがゴール、ここが決勝点、ここが人生の目的達成した世界、ここが信心決定、ここが無碍の一道の世界」と目的地をハッキリ説明されてから、
「それにはどうしたらいいか」といつも聴聞して来られたと思います。

「行に惑い、信に惑い」と親鸞聖人言われている通りで、どうしても自分の行に惑わされる、行為の善悪にとらわれて、善悪と関係のない信心の世界まで求め抜く人が少ないのは、ひとえに目的地が曖昧になってしまうからです。

もちろん善を行うこと自体を否定していたら、仏教にはなりません。

とはいえ、善悪と関係ない、善悪を離れた世界を明らかにされる親鸞聖人の教えを聞くものが、いつまでも善悪にとらわれて、「これはいいこと」「あいつは悪人」などと、善悪の沙汰(罪の沙汰)ばかりをしていてはいけないのです。早くそういうところを卒業せよといわれたのが

罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし(御一代記聞書)

というお言葉です。

前回のエントリーにも一部書きましたが、そういう沙汰が蓮如上人がいわれるところの「信心の沙汰」です。信心を取りたるか、取らざるかとは、「自力が廃ったかどうか」という沙汰であります。