安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

三願転入について2(自称福徳会員さんのまとめの感想)

三願転入の話ですが、善の勧めはあるかないかということが、いろいろと問題になっているようです。
結論から言いますと、「善の勧め」と言った場合の「善」は信心決定です。
それ以外の善ってなんでしょうか。
「親鸞聖人の教えに善の勧めはあるのか?」とか真顔で言っているのなら
「親鸞聖人の教えに、信心決定の勧めはあるのか?」と言っているのと同じことだと気がついてください。

真宗で、もし「私たちの考える善の勧め」が教えの主体として教えていれば、浄土真宗には成りません。

ちょっと前にも書きましたが、弥陀の救いを真剣に求める人が、求める善ってなんですしょうか?捨てるべき悪とはなんでしょうか?それこそ仏願の生起本末からいえば、おかしなところは有りません。

そういう意味で、善(信心決定)の勧め、「信心決定せよ」は親鸞聖人の教えです。

よって、

・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない。「佛願の生起本末」を聞けば行った善や念仏は機に従い、19願や20願の心で行ったことになる。

19願も、20願も阿弥陀仏が本願を建てられた御心からすれば、「19願や20願の心」とは、「信心決定せよ」との御心です。
別に分かれた心があるのでは有りません。
自分のやる善になにか段階を付けられるような善ができるとでもいうのでしょうか?

・三願転入のご文(「久しく万行諸善の仮門を離れ、永く双樹林下の心…」)で万行諸善と双樹林下=体失往生とセットになっている。諸善を勧めるのであれば体失往生を目的にして諸善を勧めるということになる。しかしこれは真宗の教えではない。ただし、体失往生を目的にして諸善を行うと、結果として 20願に進むことになる。だからといって、20願・18願に進むために善をせよと勧めるのは間違い。

ここも「善=人間の思う良い行い」という定義で言えば、話はその通りです。
しかし、「善=信心決定」と見ると、話は変わってきます。
「18願に進む為に、善をせよ」=「信心決定の世界にでる為に、信心決定せよ」と言うことです。
文字にすると文章になってないでないかと思われるかも知れませんが、「救われる為に、行者が○○せよ」と言ったら、「○○」に何を入れても自力が間に合うことに成り、間違いです。
御文章に書かれてあることも、
「どうしたら弥陀に救われるんですか?」
「雑行を捨てよ、弥陀たのめ(救われろ)」
平たくいえばこういうことです。
どうすれば、という方法論は何を書いても自力ですから、自力を捨てて他力に帰する真宗の教えと合わなくなります。

・真宗において「仏法は諸善に極まる」、「仏法は念仏に極まる」という言葉はない。真宗の教えは「仏法は聴聞に極まる」であり、「佛願の生起本末」を聞くことである。
・上記のことを勘案すると専任講師が何十年もまじめに求めていても一人も救われていないと思われるのは求め方が間違っている可能性が考えられる。
・上記は善をすることを否定するものではない。

まじめに求めている=聞き間違いをしていない といことでは有りません。
何十年聞いたかということよりも、正しく聞くということが大事なのです。

自称福徳会員さんの言われる通り、「仏法は聴聞に極まる」です。

最後に2チャンネルに私の主張したいことの約半分を短い言葉で表現されているものがありましたので紹介したいと思います(私の書き込みではありません)。

問題なのは、三願転入は信後に知らされる求道過程の告白なのに、
それを信前の求道の指針のように話されている点。

これは自称福徳会員さんの書き込みではないですが、「信前の求道の指針のように話されている」のは誰のことでしょうか?
親鸞聖人の三願転入の教えを正しく聞けばそのようには聞けないはずです。
理由としては、19願や20願の話を親鸞会で高森先生から聞かせて頂いても、ただの一度も、その善が間に合って助かるという話は聞いたことが有りません。
全部間に合いません。
間に合わないということから言えば、救いと財施などの諸善は無関係です。

1円も1億円もそういう意味では財施しても変わりません。
これだけしたから間に合うだろう、足しに成るだろうと思うのは、聞いた人の思っていることで、話としては聞いたことが有りません。

私の白道にも、「諸善が間に合うように勧めてきた」という元講師部員の投稿が書かれていますが、被害者のように書いていますが、同じ話を聞いていた者としては、「親鸞聖人の教えをそのように聞き誤ったのは一体どこの誰なのか」と言いたいところです。

本当に間違いだと教えを正しく理解していれば、自らが加害者には成らなかったのではないでしょうか。