元自称福徳会員さんの、コメントと質問が複数有りましたので、一つずつエントリーを分けて書いていきたいと思います。
頂いたコメントは、以下のものでした。
あなたのご意見は、結局、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」ということを教えられた親鸞聖人のお言葉はないし、今生において財施や破邪顕正を行うことで早く救われる」という思いで善をするのも勧めるのも間違いということでよろしいんですよね。したがって、「高森氏のが家を売って、財施し、アパートに住め」というのは別にそれをすることにより、今生において早く救われるからそうしなさいといっているわけではないんですよね。
高森氏の専任講師への「君たちは19願の入り口にも入っていない」というのはどういう意図での発言なのでしょうね。専任講師に何をせよ・どうせよという意図なのでしょうか?(清森問答・自称福徳会員さんのコメント)
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-145.html#comment503
まず最初にお断りしておきますが、
「財施や破邪顕正を行うことで早く救われるというのは間違い」
=「財施や破邪顕正をしないほうがよい」
ということではないことを、最初に書いておきます。
私たちがする財施や破邪顕正が、救いと関係ないと言っているだけです。
別の言葉で言いますと、信一念を突破するかしないか、真仮の水際においては、私たちがする財施や破邪顕正といった諸善が間に合うのでもなければ、あまり熱心にしなかったから救われたのでもない、念仏称えたから救われたのでもない、熱心に聞いたから救われたのでもなければ、熱心に沙汰をしたから救われたのでもない、あくまで阿弥陀仏の本願力一つによるという意味で言っているのであって、悪にほこっていいとか、善に励むこと自体が悪いといっているのではありません。
だからやらんでいい、などというのは仏教以前の道徳以下の人の考えです。真宗どころか仏教にもなりません。
よって,家を売って財施云々ということが、それによって救われると言うことになれば、真宗の教えではなくなってしまいます。
では,なぜ財施を勧められるのか,19願で「修諸功徳」と誓われているのかというのが、分かられないところになってくると思います。
救われるかどうかは、財施の多寡でもなければ、活動の多少でもありません、ひとえに自力が廃ったかどうかで決まります。
蓮如上人のお言葉で言えば、「雑行雑修自力の心をふりすてて」と言う時です。
「19願の入り口にも云々」という発言は、教えから言えば
「これだけ善いことしておれば、早く救われるだろう」という気持ちで、善をしている人は、弥陀の救いから言えば,まだ軌道に乗っていないのです。
真剣に救いをもとめて「発菩提心」という心がおこされた人は、いわゆる「後生に驚きのたった人です」
「仏法に明日はない」と我が身の無常に驚いた人が
「これだけ善いことしているのだから、早く救われうだろう」などと、悠長なことを言っておれるでしょうか。
「今が後生」となったなら、「今救われるにはどうしたらいいか?」と、深刻な問題となって悩みます。
そうなった時に、邪魔になり、見えてくるのは「雑行雑修自力の心」です。
「後生に驚きのたった人」には、必ずこの心が問題になり、どうしたらどうしたらと考えずにおれなくなります。
そんな人が19願の行者であって(あくまで救われて振り返ればで、そのときには「俺もやっと19願」などと自覚できませんし、そんな悠長なものではないのです)、そういう意味において、そんな人がいないと言われたのだと言うことでしょう。
あくまでそのときの話のことで、それ以降そんな専任講師がでたかどうかは分かりません。
では、なぜ財施をすすめるのかということですが、これは言葉上からいうといろいろと語弊もありますが、あえて書きますと
「財施等の善に励んだことのない人に『これだけ善いことをしているのだから、信仰がすすむだろう、いざとなったら阿弥陀仏は助けてくださるだろう、臨終までには何とかなるだろう』と、諸善と救いを関係づける自力の心は分からないから」です。
こう書くと、
「といことは、結局善をすれば自力が分かるってことだから、早く救われるということになるではないか」と思われでしょうが、そうではありません。
救われるか、救われないかを決めるのは、「雑行雑修自力の心」が廃った、どうか、これ一つで決まるのです。
「じゃぁどんな関係があるのか?」と聞かれる方もあるかもしれませんが
それが、救いと自分のやった善を関係づける自力の心というのです。
「? これが自力?なんでこんなものが、弥陀の救いと関係あるのか?」
と思う人もあるかもしれません、
「進めば分かります」と
言葉ではそうしか書きようもありません。
弥陀の本願を真剣に聴聞して頂くよりほかはありません。
(だからといって、聞いてさえおればよいというのも、今の救いを求めていない心ですから、それは自力です)
では後生に驚きのたった人は、諸善についてどのように向かうのか、蓮如上人のお言葉で言いますと。
これにつけても、人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修しいかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章)
自力が妨げになると聞かされても、どうしたら捨てられるだろうかと、求めるのが「いかなる功徳・善根をも修し」です。当然この中には、財施も破邪顕正も念仏も信前の聞法も入ります。
いいかえると「善がまにあうんでないよ、だからやらんでいいんだ」などという心にはならないというとです。
親鸞聖人でさえ「不可称不可説不可思議の信楽」と言われたことです。
言葉では、どう書いたところで、矛盾や不明点はでると思います。
ここからは、私見として書かせて頂きますが、あれほど縦の線と横の線を書かれて、自力他力の水際をハッキリ説かれる高森先生のご説法をお聞きして、「19願の入り口に入っていない」の話から、今日、また未来もそんな人が現れないとは思えないのが私の今の気持ちです。
縦の線を突破して、弥陀の救いに会わせて頂く、それ以外に人間に生まれてきた目的はないのですから。専任講師もそうですが、これは一人一人の問題です。
長々とああでもない、こうでもないと書きましたので、長くなってしまいました。
後の二つ質問がございましたが、また明日書かせて頂きます。