安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

三願転入について1(自称福徳会員さんのまとめの感想)

自称福徳会員さんがまとめられた三願転入について、思ったことを書きます。

・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、19願、20願を説く必要はない。「佛願の生起本末」を聞けば行った善や念仏は機に従い、19願や20願の心で行ったことになる。

「仏願の生起本末」を聞く聞法心とはどういう心なのでしょうか?
真剣に救いを求めてということなのだと思いますが、19願、20願を説く必要はないとなると、善導大師も、七高僧もみんな間違いということでしょうか?

「振り返れば三願転入だった」と知らされるということと
「説く者が、19願の教え、20願の教えを説く必要がない」ということはイコールでは有りません。

「仏願の生起本末を聞く聞法心がある人」というのは、どういう人か、蓮如上人が御文章で言われる宿善の機のことです。
私も仏法を聞かせて頂いておりますが、なかなかこの宿善の機と言う方にはお会いできません。
そんな方がおられれば、もちろん信疑決判で、真仮廃立の親鸞聖人一流の教えを徹底してお話すべきでしょう。
聞く方(宿善の機)は、そこ一つが聞きたいのですから。
善が間に合うかどうかなどと、議論をしているのは、まだ宿善の機ではないのです。

しかし、そんな心に成らない人に、18願(真仮廃立)のことを話したらどうなるでしょうか。

されば無宿善の機の前に於いては、正雑二行の沙汰する時は、却りて誹謗の基となるべきなり。(御文章3帖目12通 宿善有無)

と説かれている通りです。

そんなことをいったら、無宿善がほとんどではないかと言われるかもしれませんが、蓮如上人がここで言われる宿善の機は少なく、無宿善の機が圧倒的に多いのです。
真宗で信を得る人が、国に一人、郷に一人といわれるゆえんです。

そういう意味で

・「佛願の生起本末」を聞く聞法心がすでにある人に対し、「三願転入するためにまず、19願で説かれている善をせよ」というのは間違い。

これは正解です。
聞く人が、宿善の機ならばという前提はつきます。
参詣者のほとんどが、無宿善の機と成れば、19願の教えを説いたからといって、即座に間違いとなるのは早計ではないでしょうか。

しかし、高森顕徹先生のご法話が、19願の教えのみに終始しているとは思いませんし、「「三願転入するためにまず、19願で説かれている善をせよ」とは聞いたことが有りません。
毎回縦の線を書かれてるのは、真仮廃立を毎回明らかにされているからです。

続きもすこし書きたいことが有りますが、今日はこれでいったん書き込み終わります。