安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏のお救いは「全分他力」と聞きますが、これは責任転嫁とどう違うのでしょうか?」(Peing-質問箱-)-

Peing-質問箱-より

阿弥陀仏のお救いは「全分他力」と聞きますが、これは責任転嫁とどう違うのでしょうか? | Peing -質問箱-

質問箱には以下のように書きました。

「責任転嫁」とは、罪や責任を人になすりつけるという意味です。阿弥陀仏の救いを「全分他力」と言う場合は、「救済」についての分斉を表現したものなので、「罪」とか「責任」というものとは意味合いが違います。
自然災害や事故にあって自分の力でどうにもならない状態の人が、救援隊に救助されたような状況を指して「責任転嫁だ」とか「自己責任で何とかすべき」といわないのと同じことです。

自身の救いについて自分の「責任」と思うかどうかについて書きます。
責任の意味は以下のものです。

せき‐にん【責任】
〘名〙
①責めを負ってなさなければならない任務。引き受けてしなければならない義務。
(日本国語大辞典)


地獄へ堕ちたくないとか、自業自得だから自分の蒔いたタネは自分で刈り取らなければならないと考える人にとっては、浄土往生も自己責任の範疇のことだと考えるかも知れません。


実際私もそのように考えていました。
自分の蒔いたタネで地獄へ堕ちるのであれば、後生の一大事といってもこれは自分が一生かかっても為さねばならない大事業だと思っていました。


しかし、「自分が引き受けてしなければならない義務」のように考えていても、それが自分でできるかどうかとなると話は別です。例えば生活習慣病になるのはその人の日ごろの生活によるものが大きいですが、だからといってそれが自分で治せるかどうかとなると話が違うのと同じ事です。


全分他力という言葉は、私が救われると言う事は全て他力によるものと言う事であって、責任転嫁とは違います。もとより自分ではどうしようもない問題なので、阿弥陀仏が私に先立って私を救うという本願を建ててくださいました。


後生の一大事という問題は、私の問題に違いはありませんが、それが解決できるかどうかとなると私のできる範疇の問題ではありません。その意味で、助けると言う阿弥陀仏の仰せに従う事は、責任を押し付けることではなく、助ける方に助けて頂くと言う事です。


もし責任転嫁ということになれば、阿弥陀仏に私を助ける気がないのにそれを押し付けたという事になります。

(38)
如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり(正像末和讃 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P606)

阿弥陀仏は苦悩の私を捨てずに、私に救いを差し向けるために南無阿弥陀仏となってくださいました。ただ今助けるの仰せを聞く事は、仰せを賜ることであって私の義務を押し付けることではありません。