安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「救われても何も変わらないと聞くと、では念仏を称える時はどんな心で称えているのでしょうか?私は念仏を称えていても何も感じないといいますか、これで助かることがあるのだろうかとか考えてしまいます。」(頂いた質問)

救われても何も変わらないと聞くと、では念仏を称える時はどんな心で称えているのでしょうか?私は念仏を称えていても何も感じないといいますか、これで助かることがあるのだろうかとか考えてしまいます。(頂いた質問)

南無阿弥陀仏が私を助ける法そのものであり、阿弥陀仏からさし向けて下さっていると聞き入れているのですから全く何も感じないということはありません。

そこで、どんな気持ちで念仏を称えるのかということについて、御一代記聞書から紹介します。

(19)
一 御たすけありたることのありがたさよと念仏申すべく候ふや、また御たすけあらうずることのありがたさよと念仏申すべく候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、いづれもよし。ただし正定聚のかたは御たすけありたるとよろこぶこころ、滅度のさとりのかたは御たすけあらうずることのありがたさよと申すこころなり。いづれも仏に成ることをよろこぶこころ、よしと仰せ候ふなり。(御一代記聞書)

(現代文)
「すでにお救いいただいた、ありがたいことだと念仏するのがよいのでしょうか、それとも、間違いなくお救いいただく、ありがたいことだとお念仏するのがよいのでしょうか」とお尋ねしたところ、蓮如上人は、「どちらもよい。ただし、仏になるべき身に定まったという正定聚の利益においては、すでにお救いいただいたと喜ぶ心であり、浄土に往生して必ず仏のさとりを開くという滅度の利益においては、お救いいただくことに間違いはない、ありがたいことだと喜ぶ心である。どちらも仏になることを喜ぶ心であって、ともによいのである」と仰せになりました。

http://goo.gl/BzAeYT

これは、現代文を読んでみると分かられると思いますが、ただ今救われていることを喜んで念仏するのか、それとも間違いなく浄土に往生し仏にしていただける未来のことを喜んで念仏するのかという質問です。
それに対して蓮如上人は、どちらもよい、どちらでも仏になることを喜ぶ心であるからだと言われています。すでに仏になれる身に救って頂いているのですから、阿弥陀仏に「どうか助ける下さい」と祈るような気持ちで念仏をとなえることはありません。どんな気持ちかと言えば、仏になれることを喜び有り難いという気持ちで称えます。



ただ、24時間そのような有り難い心が続くような有り難い人に突如生まれ変わるということではありません。煩悩具足の凡夫であることに変わりはないので、懈怠な我が身もまた変わりません。私も以前は、獲信したら24時間有り難い心が継続し、寝る間も惜しんで御恩報謝の活動を自動的にするのかと思っていました。しかし、長い間の習慣はなかなかすぐには変わりません。

御一代記聞書に以下のようにあります。上記の御一代記聞書の直前のものです。

(18)
一 仰せに、ときどき懈怠することあるとき、往生すまじきかと疑ひなげくものあるべし。しかれども、もはや弥陀如来をひとたびたのみまゐらせて往 生決定ののちなれば、懈怠おほくなることのあさましや。かかる懈怠おほくなるものなれども、御たすけは治定なり。ありがたやありがたやとよろこぶこころを、他力大行の催促なりと申すと仰せられ候ふなり。(御一代記聞書)
(現代文)
「ときとして、おこたりなまけることがある。これでは往生できないのではなかろうかと疑い嘆くものもあるであろう。
けれども、すでに弥陀をひとたび信じておまかせし、往生が定まった後であれば、なまけることの多いのは恥ずかしいことであるが、このようになまけることの多いものであっても、お救いいただくことは間違いない。
そのことをありがたいことだ、ありがたいことだと喜ぶ心を、弥陀の本願のはたらきにうながされておこる心というのである」と、蓮如上人は仰せになりました。

http://goo.gl/gWTHuj

懈怠な心も起きますし、有り難くない心も起きるときはあります。しかし、そういうものを助けて下されると聞いているので、また有り難いことだと思います。ただ、それは私がそんな有り難い見方のできる人間になったからではなく、他力大行の催促によって起こさせられた心です。この他力大行の催促とは、この南無阿弥陀仏の念仏のことです。懈怠な心で念仏するときには、そんな懈怠なものにも、ただ今助けるとの仰せですから、それを聞けば有り難く感じます。

信心獲得の上の念仏は、私の心の状態がどうあっても、常にただ今助けると聞こえる念仏ですから、何も感じないということはありません。その時は何も感じなくても、やがて有り難いと思わせて下さいます。