「弥陀をたのむ」とは、信順許諾(おまかせする)であって、祈願請求(お願いする)ではないと聞きますが、この両者の決 | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。
決定的違いについて、信順許諾は「助けられる」、祈願請求は「助かる」です。
これに加えて書きます。
質問箱に書きましたのは、「阿弥陀仏に救われる」とはどういう事かを言い換えたものです。
信順許諾は、阿弥陀仏が助けるとの仰せの通りに救われることですから「助けられる」と書きました。それに対して祈願請求については、私が「助け下さい」と阿弥陀仏に文字通り請求する事で「助かる」ことになります。
「救い」について、与えられるものとして頂くか、自ら求めて獲られるモノとして考えるかの違いがあります。
阿弥陀仏に救われようと考えると、頭の中で「何かをして」阿弥陀仏に救われようと自動的に変換して考えます。それが、いろいろな自分の行為として考える結果になっていきます。文字通り祈願する人もいるでしょうし、これだけよい事をしたのだから助けて下さいと、阿弥陀仏と取引をしようと考えたりもします。
阿弥陀仏と取引をしようという考えは、ある程度阿弥陀仏と自分を対等と考えているのが前提です。対等ではないと言うのは、身分的な上下の事を言っているのではありません。対等と言うのは、阿弥陀仏が自ら五劫思惟の願と兆載永劫の行によって仏になられたように、自分もある程度までは仏になれるような力があると考えていることです。つまり、「自分は仏になれるものだ」「手助けがあれば仏になれるものだ」と考えていると言う事です。
どうしてそのような考えになるのかと言えば、自らを病人とし、阿弥陀仏を医者に喩えるような話が頭にあるのではないかと思います。確かに、そのような例えはありますが、例え話というのは合わない所があるものです。一般の通念として医者によらねば直らない病気はいろいろあります。その一方で、医者が力を尽くしても直せない病気もあります。手術後の経過に悪くなる人もありますが、その場合は患者本人の体力や病気の進行状況や、免疫力などなどによって左右されます。
医療行為の場合は、医者の力も大きいですが、病人が完治するかどうかは病人の状況による割合も少なくありません。
その頭で阿弥陀仏と私の関係を考えると、「治療がより効く状態になろう」と考えたりするものです。健康診断の前に、食事を断ったり、数日前から酒や甘いものを取らないようにする考えに似ています。いろいろな数値を少しでもよく見せようと考えてあれこれと対策をする人もいます。少しでもよく見せようとしたところで、本当の姿は変わらないのですが、医者に指摘されたくなくてとりあえず取り繕おうとします。
しかし、どう繕ったとしても阿弥陀仏からみれば私はどうにも自力では助かりようないものです。その意味では病人というよりは、文字通り救助されるもの(救われるもの)です。その私に対して、私が助けを求めるより前に助けると呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。
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如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり(正像末和讃・浄土真宗聖典註釈版P606)
助ける仰せが先であって、私は助けられるものです。私の助かるが先で「助かる」のではありません。