安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

顕真4月号「念仏成仏これ真宗」のテレビ座談会法友通信について思ったこと3(富山の会館参詣は救いの条件にはなりません)

顕真4月号「念仏成仏これ真宗」のテレビ座談会法友通信について思ったこと - 安心問答(浄土真宗の信心について)の続きです。

3「富山の親鸞会館へ毎回参詣」について

もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。(選択本願念仏集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209

多く聞くことが救いの条件の本願ならば、聞くことが少ないものは往生の望みが絶たれてしまう。しかも、多聞の者は少なく、少聞のものは大変多いと言われています。

仏法は聴聞に極まるですが、「多聞に極まる」ではありません。
加えて、親鸞会では「多聞に極まる」というより「参詣に極まる」が実態です。
富山の親鸞会館に参詣しないと救われないのであれば、そこへ足の運べない人は往生の望みは絶たれてしまいます。
現在はネット中継もしているようですが、2時間3時間の話を聞く体力がない人は救われないかのようにいうのが、親鸞会です。加えてネット中継も開催条件がいろいろあるので、そんな条件を満たせる人は多くありません。

まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(選択本願念仏集・浄土真宗聖典七祖篇(註釈版)P1209

いろいろの行を条件とする本願であるならば、条件がなんであれ往生する者は少なく、往生できない者が多くなってしまいます。そこで、阿弥陀如来は、法蔵菩薩であられた昔に平等の慈悲によってただ念仏一つで救う本願を建てられました。

諸行は選び捨てられ、念仏を選び取られたので、選択本願念仏といわれます。
阿弥陀仏が選び取られた念仏は、私の行ではありません。もし私の行であるならば、それもまた条件となって救われない人がでてきます。阿弥陀仏が衆生を救うために直接働いておられる姿が、南無阿弥陀仏です。行といっても阿弥陀仏がされる行なので、親鸞聖人は教行信証行巻の表題に「浄土真実の行」「選択本願の行」といわれています。人間の行ではありません。ですから、聞く人の力や話をする人の力で往生するのではありません。

その浄土真実の行であり、選択本願の行である南無阿弥陀仏を、疑い無く聞く一つで救われますから、仏法は聴聞に極まるといわれます。

「まずは○○せよ」と間に行を差し挟むものがありませんから、南無阿弥陀仏一つで救われる本願なのです。