安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信心を頂いた人が、認知症などでボケてしまったら、どうなるのでしょうか?阿弥陀仏の事や、南無阿弥陀仏という言葉すらも忘れてしまったら、再び後生が不安になったり、再び疑いや計らいが出てきたりしないのでしょうか?信心決定した後には何もかも忘れてしまった人と、信心決定していなくて信じられない人とは、信じ方・疑い方に於いてどの様に違うのでしょうか?疑蓋が外されて信じている状態とは、記憶が失われても信じていられる信じ方なのでしょうか?」(Peing-質問箱-より)

Peing-質問箱-

信心を頂いた人が、認知症などでボケてしまったら、どうなるのでしょうか?阿弥陀仏の事や、南無阿弥陀仏という言葉すら | Peing -質問箱-
質問箱には以下のように書きました。

信心を頂いたというのが本当であれば、摂取の光明に摂め取られているので、認知症などで忘れてしまったとしても浄土往生します。
「覚えた、忘れた、信じる、疑う」というのは、私の「考え」なので、それと阿弥陀仏に摂め取られているかどうかは別です。
信心決定して忘れた人と、信心決定していなくて信じられない人の違いは、仏願の生起本末を聞いて疑い無いということがあったかなかったかの違いです。
疑蓋がないというのは、聞いて疑い無いという信心のので、記憶と関係ありません。聞いている信心が信心で、信じ方を論じるのは私の心の持ちようです。

これに加えて書きます。
質問箱の文面からすると、「私がどう信じられているか」という思いぶりと信心の関係について質問をされているのだと思います。

真実信心とは、親鸞聖人はこのように書かれています。

選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。(唯信鈔文意 - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P702)

本願名号を聞いて、疑うこころない状態を真実信心といいます。

信心についていろいろと書かれているところはありますが、ただ私の上での信心について書かれている場合はこのように「本願名号を聞いて疑う心がない」ことだと言われています。

ただ「疑う心がない」と言えば、私の心の状態が信心と言うことになります。そのような「私がどう思えたか」では、「金剛心」とは言われません。私の側には、何もありません、そういう意味での「一念も疑ふこころなき」と言われています。
では、「本当に何も無い」のかといえばそうではありません。ここでは「選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて」と言われています。
ただ、南無阿弥陀仏を聞いているということです。南無阿弥陀仏は、私を助ける働きですが、聞くと言う言葉に対応していうと、本願招喚の勅命ともいわれます。その私を助けると招き呼び続ける勅命と聞いて疑い無いのが信心です。ですから、「疑いという思いがない」というよりは、南無阿弥陀仏を聞く上では私の考えや感情を挟んでいないということです。


先の唯信鈔文意には続いて、このように書かれています。

この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり(

その上で、阿弥陀仏は摂取して捨てられないので必ず仏になる身にしていただきます。ですから、この信心は「やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとく」と言われます。

一度摂取不捨となりますと、お尋ねにあるような「認知症」「忘れた」ということがあっても、必ず仏になる身となったことは変わりません。

また、私が「考え、決断し、実行する」というような思いとは関係ない信心なので、記憶があってもなくても、なくなるということはありません。


「再び後生が不安になったり、再び疑いや計らいが出てきたりしないのでしょうか?」については、これがいわゆる自力の心という意味では出てきません。自力心が再び出てくるというのは、定義としてはありえないので、もし出てきたということがあれば、元々自力を捨てられていなかったということです。