安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「本願に疑いない」と「南無阿弥陀仏(ただ今救う)に疑いない」は同じことでしょうか?本願に疑いないという表現が今一つピンと来ません。」(頂いた質問)

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「本願に疑いない」と「南無阿弥陀仏(ただいま救う)に疑いがない」とは同じことでしょうか?本願に疑いないという表現 | Peing -質問箱-

お尋ねの内容の「本願に疑いないというの表現が今一つピンと来ない」というのは、実際に助ける働きは南無阿弥陀仏にあるのに対して、本願は願いの言葉だから救う力はないと思われてのことかと思います。

これについては、本願と名号の関係について書かれた親鸞聖人のお手紙を紹介します。

誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふも、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべき。ききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。あなかしこ、あなか しこ。
 ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。(親鸞聖人御消息23・末灯鈔9)

誓願とは本願と同じです。
ここで、本願・名号(南無阿弥陀仏)といっても変わったことではない。本願を離れた名号もないし、名号を離れた本願もありません。このように定義をいうのも計らいです。ただ本願を不思議と信じ、また名号を不思議と信じて称えるうえは、私の計らいは必要ありません。誓願不思議を信じるのは他力、名号不思議を信じるのは自力と、聞きわけ知りわけねばならないと教える異義があるが、これもみな間違いです。浄土往生については、私の計らいは必要ありません。
ただ阿弥陀如来にまかせるだけです。
と言われています。


名号は、本願の通りに成就したすがたなので、南無阿弥陀仏が私を助ける働きといわれるのも本願通りだからです。また、本願はただ願われたということではなく、本願は成就しているのでその本願通りにする力があります。これを本願力といいます。その本願力が南無阿弥陀仏となって私に働いて下さいます。

本願に疑い無いといっても、南無阿弥陀仏に疑いないと言っても同じことになります。南無阿弥陀仏と信じ称えるところに、本願を信じるということとどう違うのだろうかとあれこれ考える必要はありません。また、それが理解できないと救われないということもありません。ただ今救うと聞いてただ今救われて下さい。