安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「よくいつも阿弥陀仏は私に寄り添ってくれているという話がありますが、目に見ることができず、いったいどこにいるのだろうという気がいつもします。」(頂いた質問)

「よくいつも阿弥陀仏は私に寄り添ってくれているという話がありますが、目に見ることができず、いったいどこにいるのだろうという気がいつもします。」(頂いた質問)

阿弥陀経には、西方十万億の仏土を過ぎた極楽に、阿弥陀仏が今現に在して説法をしておられると説かれています。
確かに、それならば私に寄り添うことは出来ません。


しかし、お尋ねのように、南無阿弥陀仏がそのまま阿弥陀仏ですから、念仏するままが阿弥陀仏とともにあるということです。


唯信鈔文意には以下のようにあります。

この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。(唯信鈔文意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P699)

https://goo.gl/ppdLZk

上記の文章では、最初に南無阿弥陀仏がすべての人を仏にするという誓いによってあらわれた名号であるといわれています。
その南無阿弥陀仏は、全ての人一人一人に分かれて(よろづの衆生ごとにとわかつ)個別に導いてくださっている(ことごとくたすけみちびきたまふ)と言われています。

なぜなら、南無阿弥陀仏によらねばどんな人も自分の力や智慧では仏のさとりを開くことはできないからです。阿弥陀仏は智慧のひかりそのものの仏様ですから、全ての人に念仏申されるように勧めておられます。

「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。(同上)

阿弥陀仏が目に見えないのは、理由としては二つあります。
一つには智慧そのものの仏なので形がないからです。
もう一つは、南無阿弥陀仏そのものが阿弥陀仏なので、私が称え耳にするという形で私が認識することができる仏だからです。
目をどれだけ凝らしても仏像のような阿弥陀仏は目にすることはできません。しかし、常に南無阿弥陀仏と念仏申すところに、阿弥陀仏は常に働いて下さっているということです。