安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

正しいかどうか以前に必要かどうか(頂いた質問)

親鸞会会員を続けています。いろいろとネット上で教義的な誤りが指摘されているのを読んで、間違っているとわかる気もするのですが、正直なところ私にはよく理解できません。親鸞会館に毎月行っていますが、聞いた話もすぐ忘れてしまいます。自分なりにいろいろと勉強しないと、間違いというのは分からないものでしょうか?(頂いた質問)

正確な意味でどこが正しいか、間違いかということを納得するにはあるていどの知識は必要です。しかし、勉強をしなくても、いま聞いている話が自分にとって必要かどうかは分かります。
それは誰でもない自分自身の心に尋ねてみればわかることです。
阿弥陀仏の本願は、現在ただ今救うという本願です。それは、現在ただ今が常に臨終だという私を目当てに建てられているからです。

そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。(口伝鈔・浄土真宗聖典(註釈版)P910

臨終と言っても、当分先のことではありません。現在が臨終です。命は、いまこの瞬間にも失われるかもしれない儚いものです。
ただ今が臨終という前提で、毎月行かれている場所で聞く話は、自分にとって聞きたい話かどうかを自分の心に尋ねてみられたら分かります。
自分がいよいよ死なねばならない臨終の枕元で、聞きたい話は、「雑行と雑毒の善の違い」でしょうか?「因果の道理」でしょうか?

「どうしたらこの臨終の状態から、浄土へ往けるだろうか?」の答えではないでしょうか?
観無量寿経には、生前に仏法を聞いたこともない悪人が、臨終を迎え、苦しみのあまり心を落ち着けて阿弥陀仏を念じることもできない相手に、善知識が説かれる言葉が出てきます。

善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。(観無量寿経・浄土真宗聖典(註釈版)P115
現代語訳
そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。

南無阿弥陀仏を称えなさいとだけ勧めています。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏がこのようなただ今臨終の悪人を救うために呼びかけられる、阿弥陀仏の呼び声です。同時に、私を浄土に往生させる阿弥陀仏のお働きそのものです。

ただ今救う、我をたのめという阿弥陀仏の仰せです。
そのまことの言葉に救われるのですから、聞かねばならないのは、ただ今救うという阿弥陀仏の仰せであり、南無阿弥陀仏です。
「こうしたら救う」という手段ではなく、「そのまま救う」という救いの言葉を聞くのが聴聞です。
お尋ねの方が、今日自分が本当に死ぬ日だと考えて、また聞法の場所が自分の臨終の枕元だと考えて、そのとき本当に聞きたい話かどうかを、自分の心に尋ねてみられたら分かると思います。
正しいかどうか以前に、自分にとって必要かどうかが大事です。