安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「喜ぶべき心を抑えて喜ばせない心が知らされるということは、煩悩に抑えられている喜ぶべき心が知らされているからこそ仰っているのではないでしょうか。」(中学生さんのコメントより)

中学生さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「『後生の一大事を解決した人』は、死後がどのようにわかるようになるのでしょうか?」(ひなさんのコメント) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
にコメントを頂きました。


YGMさんのコメントに対するものなのでそこから引用します。

YGM 2021-10-21 17:01:37

中学生さん

>>何が救われたか知らされると理解しております。

何が救われたかは、聴聞で教えてもらうのです。
聴聞しなくても、おのずから知らされるような、知恵を授かるようなことはありません。
救われる前は聞いても疑っていたことが、
救われると、聞いたことがそのまま疑い挟むことなく安心となります。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/20130816/1376645018

中学生  2021-10-25 00:19:06

1.「「其の名号を聞きて信心歓喜す」といへり。(中略)故に「信心歓喜」といふは即ち信心定まりぬれば浄土の往生は疑なく思うて、よろこぶこころなり」(御文章三帖目十六通)とあります。「浄土往生疑いなしと思ってよろこぶこころ」と仰っています。平生業成の教えですから、「其の名号を聞きて信心歓喜す」るのは平生、生きているときです。生きているとき、「浄土往生疑いなしと思ってよろこぶこころ」になるということにならないでしょうか。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/20130816/1376645018

御文章に関しては、書かれてある通りです。何もなしにそう問われたら「そうです」と私も答えると思います。


ただ、この記事で書いたことや、その後のやりとりを受けて中学生さんがコメントをされたということを考えると、少し分かりかねるところがあります。

そこで、私が中学生さんのコメントの文面から「浄土往生間違いなしと(私が)思って(その思ったことをもって)よろこぶこころになる(心がそのように変化する)」といわれているのではないかと思います。(違ってたらすみません)

同じ、本願成就文の「信心歓喜」について、親鸞聖人は一念多念証文ではこのようにかかれています。

「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。(一念多念証文・)

ここの「えてんず」については、浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版には、このように書かれています。

えてんず きっと得るであろう

「うべきこと」というのは、未来に得られる利益のことで、浄土に往生し仏になることをさします。それについては、「うべきことをえてんず」といわれ、得られるべき利益がきっと得るであろうという推量の表現をされています。それは、私には未来を見通すような智慧が身に付くわけではないので、あくまでも阿弥陀仏の仰せに違いがないので私の方からはそのような言い方になるといわれたものです。

記事にも同様の表現で書きましたが、「往生できるかどうか分からない」ということはありません。それが「間違いない」というのは、「私が間違いないと思えるから」ではなくて、「間違いないとの仰せに疑い無い」からです。

中学生 2021-10-25 00:37:49
2.
>聴聞しなくても、おのずから知らされるような、知恵を授かるようなことはありません。
>救われる前は聞いても疑っていたことが、
>救われると、聞いたことがそのまま疑い挟むことなく安心となります。

聴聞しなければ、苦しみは変わらないということでしょうか。
聴聞させていただくと喜びになるが、その喜びはだんだん薄れていく欲を満たしたときの喜びと同じということでしょうか。

阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなければ、必ず浄土に往生し、仏にさせて頂きます。
阿弥陀仏に救われることで後生の苦しみは無くなります。ただ、なんでもかんでもいきなり分かるような智慧が身に付くわけではないので、仏様からご覧になった私の姿は聴聞を重ねていくことで段々と知らされてきます。救われた時に「分かった」と思ったことがあっても、そこからより深く知らされていくものです。
ですから、救われた喜びというのは欲を満たした時のような段々と薄れていくものではありません。ただ、聴聞を重ねるとより深まっていきます。煩悩に覆われた私は、日ごろ念仏もせず聴聞もしなければ、最初の時以上に喜ぶことはありません。

(続き)
3.煩悩即菩提の身になれば、「定聚の数に入ることも、真証の悟りに近づくことも、喜ばず」と仰っていても、「喜ぶべき心を抑えて喜ばせざるは、煩悩の所為なり」(歎異抄)「他力の悲願はかくのごとくきの我らがためなりけりと知られて、いよいよ頼もしく御覚ゆるなり」(歎異抄)喜ぶべき心を抑えて喜ばせない心が知らされるということは、煩悩に抑えられている喜ぶべき心が知らされているからこそ仰っているのではないでしょうか。(同上)

「喜ぶべき心」というのは、「本来ならば当然喜ぶべき心」という意味です。
「いよいよいよいよ頼もしく御覚ゆるなり」というのは、その前に書かれていますが、「他力の悲願はかくのごとくきの我らがためなりけりと知られてのことです。阿弥陀仏の本願をたのもしく思ってのことです。
元々の喜ぶ心といっても、それは阿弥陀仏の心であって私の心ではありません。「欲生我国」にしても、本来ならば当然喜ぶべき心ですが、煩悩に覆われて本来喜ぶべき程には喜んでおりません。

このように書いていますが、喜ぶ気持ちが皆無と言いたいのではありません。
喜ぶ心もありますが、それはあったとしても本願力によるものであって、私が「喜ぶような尊い人」に変わるような意味ではないということです。

コメント欄の続きはこちらの記事

anjinmondou.hatenablog.jp