安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「(南無阿弥陀仏の)その働きが私の上にあらわれないのは、私が拒否しているからでしょうか、それとも疑っているからでしょうか、それとも救いに手出しをしているからでしょうか。」(頂いた質問)

前回のエントリーanjinmondou.hatenablog.jp
に対して、以下のような質問をいただきました。

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Peing-質問箱-より

2021-09-12のエントリーを読ませていただきました。 | Peing -質問箱-
質問箱には、以下のように書きました。

言葉は違っていても、「拒否する」「疑っている」「救いに手出しをしている」は、根っこは同じものです。南無阿弥陀仏のお働きより先に、自分を優先している点です。阿弥陀仏が私が救いを求めるより先に、阿弥陀仏は私を救う本願を建てられ、その本願は成就しました。私は、その南無阿弥陀仏により助けられる側なので、阿弥陀仏の方からの注文はありませんし、私の方から何かを付け加える必要は元々はありません。
無いところに、何かあるはずと付け加えようというのが自分を優先する考えです。

これに加えて書きます。

自分が阿弥陀仏の働きを拒否しているのかについて

拒否というと、自覚的に拒否しているということになりますが、「私は拒否しているのでしょうか?」と 質問されるところからすると、その自覚は無いのだと思います。ただ、自覚できればそれを自分で何とかするということになると、自分でなんとかすれば救われるという話になってしまいます。

拒否というのは、はねつけるともいいますが、 何をはねつけているかと言えば阿弥陀仏の呼び声を聞かないと言うことです。阿弥陀仏がただ今助けると呼びかけられていることを聞かないことです。

自分が疑っているのかについて

疑いについても、 拒否していると言う事と同様に、自分で自覚は無いのだと思います。疑いと言う事について親鸞聖人は自力の心のことであると言われています。自力の心と言うのは自力の信心ことで、 自分で間違いないと信じていることをいいます。または自分で信じて何とかしようと言うことをいいます。
何を間違えないと信じているかといいますと、自分に何か間違いがあるとしてもその間違いを自分で自覚してそこを修正すれば、あるいは直せば救われると言う考え方です。
阿弥陀仏のただ今救うの呼び声である南無阿弥陀仏を、ただ今救うと聞いたということが、自分で何かを修正する必要は本来なかったと聞いたということです。

救いに手出しをしているについて

阿弥陀仏の救いは、先手の救いとよくいわれます。これは、将棋や囲碁に譬えた言い方です。阿弥陀仏が、私に先立って本願を建てられ、成就して南無阿弥陀仏となって私に「ただ今救う」と呼びかけられています。それが、阿弥陀仏が「先手」で私にされていることです。それに対して「後手」の私が「待った」をかけているのが、手出しをしているということです。

まとめ

この先手ということで、まとめていうと先手の阿弥陀仏が出された一手が「南無阿弥陀仏となってただ今救うと呼びかける」です。それに対して「待った」をかけるのが「手出しをする」ということであり、「拒否する」ことです。なぜそうなるかといえば、「自分で何かをすることがある」と強く信じている(疑っている)からです。

言い換えると、阿弥陀仏が「助ける」と本願を建てられたのも、私を「助けよう」とされたからであり、私は「助けられるだけのもの」に過ぎません。
しかし、元来仏教は基本的に自らの意思で生死を離れようと思い立ち、努力をし、努力を積み上げて迷いを離れていくものです。それができないものの為に阿弥陀仏は本願を建てられました。

その阿弥陀仏の本願は、どうしても自分の力では生死を離れることができないものを憐れに思われて大慈悲心をもって建てられたものですが、なかなかそれを聞く私は「やはり自分でなんとかしなければならないものだ」と考えてしまいます。「助けられるだけのもの」ではなく、「助かるもの」になろうとします。また「助かるもの」になろうと、努力をします。あるいは、自らの欠点を穴埋めしてそうなろうとします。

阿弥陀仏が先手の一手で「ただ今助ける」と指されると、後手の私はそれを「助けられる」以外にはありません。そうなると何も私の方ですることはないので、「助けられるだけのもの」になることをよしとしない自分中心の考えが私にあるので、それに対して拒否をします。


しかし、私から阿弥陀仏に何か差し出すものはありません。

まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。(顕浄土真実信文類 (本) - WikiArc・浄土真宗聖典註釈版P241)

阿弥陀仏の仰せの通りに、ただ今救われて下さい。