安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「こちらが本願を拒否している、拒否していないなどと、自分の思いなどは気にせず、本願が今自分に働いていることを知るべきなのでしょうか。」(Peing質問箱)「自分で自分を分類するなよ(Habit)」の話

anjinmondou.hatenablog.jp
前回の記事に追記の形で書きます。

質問箱より

6/7の続きなのですが、こちらが本願を拒否している、拒否してないなどと、自分の思いなどは気にせず、本願が今自分に | Peing -質問箱-


自分はどちらなのだろうかと考えることはよくあります。人はそのように、ある物事を二つに分けて考えるものです。仏教では、分別心といっています。

分別心について

阿弥陀仏の救いを求めようとするときに、この分別がいろいろな場面で出てきます。浄土真宗辞典には、こう書かれています。

ふんべつ 分別
⑴思い計ること。大乗仏教では、凡夫の分別を虚妄分別、妄分別という。
⑵類別、分析すること。

善と悪、敵と味方、好きと嫌いといったように、いろいろと類別することを分別といいます。ただ、辞典にもありますように、凡夫の分別は「虚妄分別」といわれます。これは、実体としてないものを勝手に分別しているということです。
例えば、あの人は善人、あの人は悪人と分別しますが、その人がどこをどう切っても善人ということもあり得なければ、悪人ということもありません。自分の都合で、善いか悪いか、どうでもいいかと分けているに過ぎません。

真宗での自力の分別とは

お軽同行の歌に

をのがふんべつ(己が分別)さっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ(妙好人*六連島のお軽さん - www.yamaguchibetsuin.net

というのがあります。


阿弥陀仏の本願についてもあれこれ思案を巡らせますが、同時に自分自身についても思案を巡らしてしまいます。それが、「どんな人が救われるのか?」と考え、自分がそういう人間かどうなのかを分別して、「救われない側」から「救われる側」へと自分が変わろうと考えます。


丁度、阿弥陀仏に救われることが浄土への試験に合格することであるかのような考え方です。
どうしたら、合格ラインを越える事ができるのかという考え方は、ますます自分自身を分別してしまいます。

「疑っているから救われない」と聞けば、「自分は疑っているのか?」「疑っていないのか?」と分類したがります。
また、今回の質問のように「自分は本願を拒否しているのか?」「拒否していないのか?」と区別したがります。

しかし、阿弥陀仏の本願はすべての人を救うという誓いですから、そもそも私を分類して、ある特定の人だけを救うというのものではありません。ですから、自分をあれこれ分別することは捨ててしまいなさいと、先のお軽同行は歌に書いています。

「己が分別さっぱりやめて」と歌う曲の紹介 「Habit」(SEKAINO OWARI)


www.youtube.com

最近人気の曲なのでご存知の方もおられると思います。この曲に合わせてのダンス動画がネットで現在人気です。

曲そのものは、主に今の若者に向けて、「自分はこうだ」とジャンル分けして留まっていることは悪い癖(Bad Habit)だから、そんなものは捨てていこうというものです。ただ、詩の内容はところどころ「己が分別さっぱりやめて」と歌っているところが、よい歌だと思ったので紹介します。

この歌の出だしは

君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか

で始まります。

真宗で言えば、「あの人は先生」「私は門徒」とか「あの人は念仏者」「私はそうではない」とか「あの人はご縁の厚い人」「私はそうではない」、「あの人は頓機」「私はそうではない」などなどと、自分を聞法者の中でも「分類、区別、ジャンル分けしたがる」ことに当てはまります。

そうして「自分はこうだから」と分別することで、どこか安心しようとする心があります。それについて、この曲ではこう書いてあります。

俺たちはもっと曖昧で
複雑で不明瞭なナニカ
悟ったふりして驕るなよ
君に君を分類する能力なんてない

分別心のことを、別の場面では自惚れ心と言ったりします。しかし、そんな自分を仏様のように見通す智慧はありません。できないはずのことを、思い描いて自分を分別してしまうのは「悟ったふりして驕るなよ」という状態です。


サビの部分では繰り返してこう歌っています。

自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit

いろいろなことを聞いたり、勉強している内に、自分で自分を分類する悪い癖(Bad Habit)が身についてしまいます。

例えば「自分は十九願です」「自分は二十願です」と言うのもその一つです。さらに言えば「私は救われた」「あの人は救われてない」というのも同じことです。そんなふうに「自分で自分を分類するなよ」「壊して見せろよ そのBad Habit」という歌だと聞いてみると有り難いことを歌っている曲だと思いました。

ただし、真宗の歌ではないので、「弥陀の思案にまかしゃんせ」はありません。

自力のこころをふりすてて、弥陀をたのむ

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。(領解文)

蓮如上人が勧められているように、自分が拒否しているとかしていないとかというのは「もろもろの雑行雑修自力のこころ」です。それは、ふりすてて、阿弥陀仏をたのむのが信心です。「今度の一大事の後生」を阿弥陀仏は助けるとよびかけておられます。ただ今聞いて救われて下さい。

自分を分類していると思う人は、この曲を改めて聴いてみてください。字幕がついているので設定で字幕をONにするとよりわかりやすくなります。

参照 SEKAI NO OWARI 「Habit」歌詞全文

君たちったら何でもかんでも
分類、区別、ジャンル分けしたがる
ヒトはなぜか分類したがる習性があるとかないとか
この世の中2種類の人間がいるとか言う君たちが標的
持ってるヤツとモテないやつとか
ちゃんとやるヤツとヤッてないヤツとか


隠キャ陽キャ?
君らは分類しないとどうにも落ち着かない
気付かない本能の外側を
覗いていかない? 気分が乗らない?


つまり それは そんな シンプルじゃない
もっと 曖昧で 繊細で 不明瞭なナニカ


例えば持ってるのに出せないヤツ
やってるのにイケないヤツ
持ってるのに悟ったふりして
スカしてるうちに不安になっちゃったりするヤツ


所詮アンタはギフテッド
アタシは普通の主婦ですと
それは良いでしょう? 素晴らしいんでしょう?
不可能の証明の完成なんじゃない?


夢を持てなんて言ってない
そんな無責任になりはしない
ただその習性に喰われないで
そんなHabit捨てる度 見えてくる君の価値


俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう?
普通 腹の底からこうふつふつと


俺たちだって動物
故に持ち得るOriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit


大人の俺が言っちゃいけない事言っちゃうけど
説教するってぶっちゃけ快楽
酒の肴にすりゃもう傑作
でもって君も進むキッカケになりゃ


そりゃそれでWin-Winじゃん?
こりゃこれで残念じゃん
そもそもそれって君次第だし
その後なんか俺興味ないわけ


この先君はどうしたい?
ってヒトに問われる事自体
終わりじゃないと信じたいけど
そーじゃなきゃかなり非常事態


君たちがその分類された
普通の箱で燻ってるからさ
俺は人生イージーモード
ずっとそこで眠っててアラサー


俺はそもそもスペックが低い
だから足掻いて踠いて醜く吠えた
俺のあの頃を分類したら
誰の目から見ても明らか


すぐ世の中、金だとか、愛だとか、運だとか、縁だとか
なぜ2文字で片付けちゃうの


俺たちはもっと曖昧で
複雑で不明瞭なナニカ
悟ったふりして驕るなよ
君に君を分類する能力なんてない


俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう?
普通 腹の底からこうふつふつと


俺たちだって動物
故に持ち得るOriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit


俺たちだって動物
こーゆーのって好物
ここまで言われたらどう?
普通 腹の底からこうふつふつと


俺たちだって動物
故に持ち得るOriginalな習性
自分で自分を分類するなよ
壊して見せろよ そのBad Habit