安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「やっぱり本願を疑いなく聞くにあたって、みそみそさんのように真剣に法を聞くことは大事なんですかね?」(やよいさんのコメントより)

anjinmondou.hatenablog.jp
について、やよいさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

やよい  2021-05-06 05:44:11

大変野暮なコメントかもしれませんが、私にはみそみそさんはとてもすごい方に見えます。苦しみながら何年も真剣に聞き、法座に足を運ばれ、ネットでも沢山質問され、今回のコメントを拝見しても、色々な方が残されている体験記でいう「夜明け前」のように思えます。建前上(というと大変語弊がありそうな表現で申し訳ないのですが)、自力で真剣に求めて、自力が廃るところに近づけるものではないと思うのですが、本願を疑いなく聞かれる方は、やはり真剣に聞き求めるというところを通っているのではないかなあと思いますし、そうでない人(私含め)でも阿弥陀様の救いの前に横並びでいるのかというと、違うのではないかと思ってしまいます。やっぱり本願を疑いなく聞くにあたって、みそみそさんのように真剣に法を聞くことは大事なんですかね?

現在記録として残っている妙好人といわれる方々がどのように聞法をされたのかという話は、とても真剣に聞かれていたことが伝わっています。

ただ、全ての人がそのように真剣に聞くという時期を通過してから救われたのかというとそうではありません。私が直接見聞きした限りでも、ある時にとても真剣に聞かれる方もありました。しかし、それがすべてではありません。


実態を言えば、100人参詣者がある法座で100人が信心を獲ているということはほとんどありません。しかし、その中の仮に10人が信心を獲た人だとして、10人全員が「真剣に聞き求めた」かというとそういうわけでもありません。


浄土真宗においては、信心獲得された人を「成功者」のようにはみません。なぜなら、そう思うと「成功者が成功した方法」をみんなが聞きたがるからです。仮にそれをまねしたからと言っても信心獲得できるとは限りません。


実際「あの人は真剣に聞かれた」と言っても、同じように真剣に聞く事は誰にでもできることではありません。もしそうできるのならば「真剣に聞く」ことによって誰でも信心を獲ることができるでしょう。それができないことは、私も実践してみてよくわかりました。

いつでも誰でもどんな時でも救われるのが浄土真宗の救いです。

(37)
願力無窮にましませば
 罪業深重もおもからず
 仏智無辺にましませば
 散乱放逸もすてられず(正像末和讃和讃 浄土真宗聖典註釈版P606)

どんな人でも救われます。「あんなに頑張った人だから救われた」ということはありません。
ただ今救う南無阿弥陀仏ですから、ただ今救われて下さい。