安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ここ(今生)以外にもちゃんとあなたの居場所はここにある」そう言ってくれる存在を求めていました。でも聴けども聴けどもそんなものは手に入らなくて、もう法を求める気もちも無くなってしまいました。(みそみそさんのコメントより)

anjinmondou.hatenablog.jp
について、みそみそさんからコメントを頂きました。有り難うございました。
複数の方からもコメントを頂き有り難うございました。

みそみそ 2021-05-05 03:11:13

アドバイス頂きありがとうございます。

私は人生に意味や目的を求めていません。
「死にたくない」「死んではならない」「死ぬようなことは絶対にあってはならない」という生存本能から来る「命令」に従って否が応なく、仕方なく無理矢理生きているだけです。

だからそんな自分に
「あなたはもう十分頑張った」
「もうこれ以上生きなくていい」
「今の人生にしがみつかなくてもいい」「ここ(今生)以外にもちゃんとあなたの居場所はここにある」
そう言ってくれる存在を求めていました。

でも聴けども聴けどもそんなものは手に入らなくて、もう法を求める気もちも無くなってしまいました。

このすぐ後にミリダン王さんからコメントを頂きました。

ミリダン王 2021-05-05 18:19:55

みそみそ様
元々、人生に意味や目的はありません。遺伝子により生存をプログラムされているから生きているということも真理です。
一方で、虚しさ、自己否定、自己破壊も煩悩です。

それらも一応踏まえた上で、
あなたはもう十分頑張った(これ以上頑張らなくていい。こちらで引き受けた)
これ以上生きなくてもいい(往生させる)
今の人生にしがみつかなくてもいい(往生させる)
ここ以外にもちゃんとあなたの居場所はここにある(あなたが最後に帰るべき苦しみのない世界を用意した)
と阿弥陀如来が仰っていると考られてよいのではないでしょうか。

自分は信を獲ることはできないと思ってしまうこともあると思います。
そういう時は、全力でぶつからなくとも、仏法にも目配りするくらいで聞いていく時があってもよいと思います。
変わるときは必ず来ます。

声なき声が響き渡るというようなことはありません。
何かが手に入ることもありません。

自分でぼそぼそ念仏を称えたら、自分の耳に自分の称名の声が聞こえます。
それが南無阿弥陀仏が届いていることです。
帰依の対象は声となり給う仏です。

私もコメント欄に書こうと思ったのですが、今回は記事の形にしてみました。

みそみそさんとは、このブログ上から始まって、いろいろと直接も含めて質問を聞いて来ました。


ただ、今回のようにハッキリと自分から阿弥陀仏の願いを口にされたことは初めてだと思います。

それはみそみそさんのコメントの文章では

「あなたはもう十分頑張った」
「もうこれ以上生きなくていい」
「今の人生にしがみつかなくてもいい」「ここ(今生)以外にもちゃんとあなたの居場所はここにある」(みそみそさんのコメントより)

が、それに当たります。


真宗では、念仏は阿弥陀仏の力によって称えさせられるのだといいますが、今回のみそみそさんの発言は、阿弥陀仏の願いが口から出て下されたものです。


これは自分の願いだと書かれていますが、内容そのものは阿弥陀仏の願いと同じです。いわゆる南無阿弥陀仏が口から出てくださっているということです。よくよく考えてみて、それは自分の願いなのか阿弥陀仏の願いなのかを振り返ってみて下さい。

(38)
如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり(正像末和讃・浄土真宗聖典註釈版P606)

阿弥陀如来が本願を建てられたいわれをよくよく聞いてみると、みそみそさんのような人を救う為のものです。そのために、貴方が生死を離れて往生すべき浄土を建立されました。そして、その浄土へ往生せよと南無阿弥陀仏となって呼びかけられています。

みそみそさんの口から出てくる南無阿弥陀仏は、コメントに書かれた内容と同じです。その南無阿弥陀仏が私を救う働きそのものです。何かを手に入れようとせずに、だだ念仏し、ただ聞いて下さい。聞いて疑い無いのが信心です。