安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「『そのとおりと聞く』というのは何を根拠にそう確信するのでしょうか?見てきたわけでもないのにつゆちりも疑いなくそのとおりと聞くのは無理があるところです」(忍さんのコメントより)

2020-09-28 12:08:55
「そのとおりと聞く」というのは何を根拠にそう確信するのでしょうか? 見てきたわけでもないのにつゆちりも疑いなくそのとおりと聞くのは無理があるところです
世の中創作話、ねつ造話はいくらでもあります
1999年人類滅亡するという五島学の予言は嘘だったわけです
キリストが色々奇跡を起こしたり磔の後復活したりしたという宗教も信じられています
それらのと違いは何でしょうか?

「本願の生起本末を聞いたら、疑いが晴れるのですか?」(かさねさんのコメントより) - 安心問答−浄土真宗の信心について−

何を根拠にというのは、「南無阿弥陀仏」と私が称え聞いているこの南無阿弥陀仏が根拠になります。
ただ、真宗の信心は「仏願の生起本末を聞きて疑心あることない」ことを言われるのであって、「仏願の生起本末を聞きて確信する」ことではありません。

確信とは、辞書で引くとこうあります。

かく しん [0] 【確信】( 名 ) スル
かたく信じて疑わないこと。また、その信念。 「彼の無実を-する」 「 -をもって言う」(大辞林)

確信(かくしん)とは - 確信の読み方 Weblio辞書


固く信じて疑わないという意味での確信では、どうしても目の前にないものについてことになってしまいます。コメントに書かれた予言も実際その日が来るまでは、熱心に信じている人も「確信」という言葉を使いますが、仮にその通りになったとしてもその日を迎えたら「確信」という言葉は使いません。「予言の通りだった」というくらいだと思います。
また、同じくコメントに書かれたキリストの奇跡や復活についても今日の私たちは目の当たりにすることはできないので、どれだけ信じている人でも「確信」とはいっても、「その通りでした」とは言いません。

それらとの違いは、現に私の口から南無阿弥陀仏という念仏となって南無阿弥陀仏が出て下さっているというただ今の事実についての話と、ただ今は見ることができないところにあります。


そこで、南無阿弥陀仏を聞いて疑いないというのは、この南無阿弥陀仏が私を浄土に往生させるという本願招喚の勅命と受け取るということです。私が「そのとおりと聞いて」いるのは、南無阿弥陀仏が本願招喚の勅命だからです。そのように聞いていると、南無阿弥陀仏と私が称え聞くところに往生は阿弥陀仏の方から定めて下さったという信心となります。

そのことを、法然聖人が言われています。

たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。(西方指南鈔 大胡の太郎實秀へつかわす御返事)

ここで「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」と言われています。阿弥陀仏が念仏するものを必ず浄土に生まれさせると本願を建てられています。その本願通りに南無阿弥陀仏と申すところに、私の往生は定まります。そのように聞いて疑い無いことを信心といいます。これは確信とは異なります。