安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「獲信のために何をやっても自力が入るのは避けられないと思います。色々忘れて無我の状態になった時に他力の信心は得られるということでしょうか?」(太郎さんのコメント)

太郎さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

太郎 2020-12-08 23:49:36

獲信のために何をやっても自力が入るのは避けられないと思います
色々忘れて無我の状態になった時に他力の信心は得られるということでしょうか?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/12/08/231804

この太郎さんのコメントに対して、ミリダン王さんからもコメントを頂きました。

ミリダン王 2020-12-10 19:36:51

獲信のために無我の状態になるのも自力の計らいです。
山も山さんが
> 自分から聞きに行こうという前に、ただ今助けるの仰せが私に与えられているからです。
と仰っている通り、救いはすでに与えられています。今後何かを貰うことはありません。
既にあるもの以外、何も貰えません。
大悲のすべてが込められている南無阿弥陀仏が私の口から出て下さり、私の耳に聞こえて下さっていることが救いです。
南無阿弥陀仏の声が、そのまま浄土へ連れていくという知らせなのです。
ですから、仰せの通り参らせていただくのだとそのまま受け取って安心するだけです

太郎さんがコメントにかかれているように、「獲信のために何をやっても自力が入るのは避けられない」です。
そこで、「色々忘れて無我の状態になった時に他力の信心はえられる」というのは、違います。

自力というのは、人間のいろいろな考えによるものですから、忘れてしまえば自力が捨てられた状態になるように思います。私もそう考えたことがあります。
しかし、「無我」というのは言葉の上ではあっても「自分は今無我だ」と思ってしまえば無我とはなりません。それはミリダン王さんがコメントにかかれている通りです。

太郎さんがコメントに書かれた内容は、覚如上人の報恩講私記の文章が念頭にあってのことかと思います。

至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰し(報恩講私記 浄土真宗聖典註釈版P1069)

http://ur2.link/YY0b

まことの心により本願を信じ、己を忘れてすみやかに本願の救いにあうと言われています。

この「おのれを忘れて」というのを「無我」と理解されているのかと思いました。しかし、この「無我」が、いわゆる「我というものは存在しない(無我)と覚る」無我の境地のことだとすれば、それは間違いです。なぜなら、浄土真宗では信心を獲たとしても死ぬまで凡夫であることは変わらないと教えられるからです。仮に「無我の境地」に至るのであれば、そんな人しか救われないことになってしまいます。


この「おのれを忘れて」とは、自分が中心であるということを忘れると言うことです。それは、阿弥陀仏が中心となって私はただ救われるだけのものだということを知るということです。


映画でも、小説でも、物語では主人公が何かによって救われるという場面が描かれます。そのときは、あくまで主人公は変わらず、救う人は主人公ではありません。しかし、阿弥陀仏の救いと言うのは、あくまで阿弥陀仏が主人公であり、私はただ救われるだけの存在にすぎません。阿弥陀仏が主客にたいして、私は客体ということになります。


そのように、「私が救われる物語の主人公」というところから、「阿弥陀仏が私を救う物語」に主客が転倒することを「己を忘れる」と言われます。それは無我の境地とは違います。阿弥陀仏が主人公であり、その阿弥陀仏に私は救われるという阿弥陀仏の願いを聞いて疑い無いのが信心です。