安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「子供がなんとなく楽しいからといわれを知らないまま念仏しても仏からいわれをいただいて浄土往生するということはあり得るのでしょうか?信心決定する前でもいろいろ考えるのをやめてひとまず楽しく称えるということでもいいのでしょうか?真剣になって念仏しようという姿勢がかえって念仏の実施すらも妨げていると感じることがあります。身軽な気持ちで念仏してもいいのでしょうか?」(1chさんのコメント)

1ch 2013/10/29 14:27
(略)
有限の命だからせっかくの惜しい時間余計に悩んで苦しみを増やすことのないよう、有限であると見通した知識でもって取り計らってくれるのが教えなのではないでしょうか?
それなのでこれはいやだあれはいやだというような認められなさを解消するのが救いなのではないでしょうか?
(略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131028/1382949490#c1383024459

1chさんが言われる「救い」とは、浄土真宗で言われる「救い」を指して言われることだと思います。浄土真宗で「救い」とは何なのかについては、阿弥陀仏の本願に救われることです。阿弥陀仏の本願に救われるとは、阿弥陀仏の願われた通りになるということです。


そのことを、歎異抄では

本願を信じ念仏を申さば仏に成る(歎異抄第12条)

と言われています。


阿弥陀仏の本願は、「この本願を信じ念仏するものを仏にする」と誓われたものです。その通りに、本願を信じ念仏するままが、浄土往生定まる身となり仏になることを言います。
それでも、私はあくまでも死ぬまで凡夫であることに変わりません。阿弥陀如来が計らってくださるといっても、それは本願を信じ念仏するものを仏にするというお計らいです。


また「認められなさを解消する」というような、自己承認欲求を満たすものは「本願の救い」とはいいません。仮に、それで「認められた」と思ったとしても、その「認められた自我」が残ったままで、自分が何か変わったわけではありません。そのような「自分を認めて欲しい」という「我」は、阿弥陀仏の仰せの前には必要ないものです。また、その「我」があるままでは他力とはいいません。


御一代記聞書には、以下のようにあります。

一 仏法には無我と仰せられ候ふ。われと思ふことはいささかあるまじきことなり。われはわろしとおもふ人なし。これ聖人(親鸞)の御罰なりと、御詞候ふ。他力の御すすめにて候ふ。ゆめゆめわれといふことはあるまじく候ふ。無我といふこと、前住上人(実如)もたびたび仰せられ候ふ。(御一代記聞書80)
現代文
「仏法では、無我が説かれている。
われこそはという思いが少しでもあってはならないのである。
ところが、自分が悪いと思っている人はいない。
これは親鸞聖人からお叱りを受けた人のすがたである」と、蓮如上人は仰せになりました。
仏のお力によって信心を得させていただくのです。
われこそはという思いが決してあってはならないのです。
この無我ということについては、実如上人もたびたび仰せになリました。


こうしたら助かるだろうとか、このように助かりたいとあれこれいうのも「我」です。そのようなものは、他力の御すすめの前には不要なものです。不要であるというより、それを否定していかれるのが本願力です。ですから、「われと思うことはいささかあるまじきことなり」と蓮如上人は仰ったと書かれています。


(1chさんのコメントの続き)
ところで、子供がなんとなく楽しいからといわれを知らないまま念仏しても仏からいわれをいただいて浄土往生するということはあり得るのでしょうか?
信心決定する前でもいろいろ考えるのをやめてひとまず楽しく称えるということでもいいのでしょうか?真剣になって念仏しようという姿勢がかえって念仏の実施すらも妨げていると感じることがあります。身軽な気持ちで念仏してもいいのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20131028/1382949490#c1383024459

「こんな気持ちで念仏したら救われる」「あんな気持ちで念仏したら救われる」という条件を念仏につけるのはみな自力の念仏です。自力の念仏では、浄土往生はできないと法然聖人は仰っています。

問ていはく、称名念仏申す人は、みな往生すべしや。答ていはく、他力の念仏は往生すべし。自力の念仏はまたく往生すべからず。問ていはく、その他力の様いかむ。答えていはく、ただひとすぢにわが身の善悪をかえり見ず、決定往生せんとおもひて申すを、他力の念仏といふ(和語灯録巻2)

「本願を信じ念仏する」のが、ここでいわれる『他力の念仏」です。「こんな気持ちで念仏すれば」「あんな気持ちで念仏すれば」というのは自力の念仏ですから、全く往生できないといわれています。



それでは他力の念仏とは何なのかについて、法然聖人は「わが身の善悪をかえり見ず」「決定往生せんと思ひて」申す念仏であるといわれています。ここで「わが身の善悪をかえり見ず」とは、このエントリーの文脈にそっていえば、「こうして念仏した方が善いだろう」「こういう姿勢では悪いだろう」と、自分の心の様子や行為の善悪を問題にすることであり、自力とか、計らいといわれるものです。



決定往生せんと思ひてというのは、本願を信じてということですから、本願を信じ念仏する他力念仏には、私の計らい(身軽な気持ちでいいのか云々)は入る余地がありません。反対に、念仏(南無阿弥陀仏)そのものが私の上で働いて下さっているのであって、その相を信心といわれます。



称え方や、称える姿勢、真剣かどうかを問題にするよりも、「本願を信じ念仏するもを仏にする」という南無阿弥陀仏の仰せだとそのまま聞いて念仏してください。


もう一つお尋ねがコメントにありましたが、また別のエントリーに書きますのでよろしくお願いします。