2024-10-30のエントリーで、 | Peing -質問箱-
2024-10-30のエントリーは以下です。
「阿弥陀仏が『呼ぶ方』であって、私は『呼ばれる』だけです。」といわれると、自分は「呼ばれる」まで待ってしまう状態におちいってしまうのですが……(Peing-質問箱-より) - 安心問答−浄土真宗の信心について−
これについて質問箱には以下のように書きました。
南無阿弥陀仏を称え、聞くだけです。
阿弥陀仏の救いには、「念仏を称え聞く」の「その先」はありません。
それを私を助ける法と聞いて疑いないことを信心と言われます。
これに加えて書きます。
浄土真宗の法話では「仰せを真受けに聞く」とか「そのまま聞く」という言い方をします。
いろいろと言い方はありますが、言葉を言葉通りに聞くことを言われています。どうしてそのような言い方があるのかと言えば、私たちは本願の言葉を、文字通りに受け取らず、その意味や裏を考えてしまうからです。
京言葉の話
日常の言葉でも、いわゆる「京言葉」というのがあります。
「京言葉」は、京都の人々が使う独特な言葉遣いや表現を指します。その中でも、言葉の表面上の意味と本音が異なるものが特徴的で、しばしば「京都特有の奥ゆかしさ」として知られているものです。
有名なものでは、「おえらいさんどすなぁ」というのがあります。
表面的な意味は「すごい方ですね」となりますが、本音は「偉そうな方ですね」と、 相手の地位や態度を表面的には褒めているようで、実は揶揄するニュアンスで使われます。
また、「考えときます」もあります。
表向きは「検討しておきます」ですが、本音は「断ります」です。 直接的に「いいえ」と言わず、やんわりと断る典型的な京言葉と言われます。
特に「考えておきます」は、京都に限らず日本中いろんな場面で使われていると思います。外国の方からすると、意味不明な言葉に受け取られるので、映画やドラマでしばしば外国人ビジネスマンがセリフで揶揄するくらいです。
本願は、本願通りのことしかない
阿弥陀仏の本願は、南無阿弥陀仏の救いです。京言葉のような、裏の意味というのはありません。
行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば(親鸞聖人御消息 - WikiArc・末灯鈔11・浄土真宗聖典註釈版P749)
阿弥陀仏の本願について、ここで親鸞聖人は「本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申す」と言われています。阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏と一声称えるものは往生させる」と誓われているということです。
それを聞いた人は、「ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせん」のが「行」であると言われています。
「阿弥陀仏が本願で、南無阿弥陀仏と一声称えるものを往生させる」と聞いて「一声、または十声称える」ことが、本願の行です。
その本願を「ききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念」と言われています。
「南無阿弥陀仏と一声称えるものを往生させる」と聞いてその通りに称える人は、本願を聞いている人です。その本願を聞いて疑いないのが信心といわれます。
質問で言えば「帰命は帰せよの命」と聞いたら、そのまま「帰する」ということです。「たのめ」と言われれば、そのまま「たのむ」ということが、「聞いた」ということです。
「帰せよ」「たのめ」と言われて「帰せよとはどういう意味だろう」と考えることはありません。
先ほどの京言葉のように「考えときます」とは違います。こららの場合は「考えときますといったけど、あれは本当に考えてくれているのか、それとも断り文句なのか」とこちらだ考えねばならなくなってしまいます。しかも、仕事の場ではその場でなかなか相手に「本当はどっちの意味ですか?」と尋ね難いものです。
阿弥陀仏の本願は「本願通り」の意味しかありません。それにあれこれ意味を付け足したり、裏を考えることを計らいと言います。それは、私たちの日ごろ考えていることと本願が合わないからです。
「本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申す」
今回の御消息にあるように「本願の名号を一声称えて往生す」というのが本願です。これは阿弥陀仏が、「一声南無阿弥陀仏と申すものを助ける」といわれたものです。それを聞いて、称え。称え聞いて疑いないのが信心です。
南無阿弥陀仏と称え聞くだけで終わるのが阿弥陀仏の救いです。その終わるものを終わらせないのが、私の計らいというものです。終わるものを、終わらせないのですから、本願の救いがその通りにならないという結果になります。
阿弥陀仏の仰せに裏も、不足も有りません。ただ今助けるのが本願ですから、ただ今聞いて救われて下さい。