お聴聞にも参っている、お勤めも毎朝晩行っている、お念仏も称え聞かせていただいている、それでも救われていないのは、 | Peing -質問箱-
これについて以下のように書きました。
お聴聞や、お勤め、お念仏そのものは間違っていません。
ただ、聞いていけば救われる、お勤めしていけば救われる、お念仏申していれば救われるというように、今の延長上に救いを思い描いているのでしたら、その点は間違いです。
上記に、付け加えて書きます。
いろいろなことをされていること自体悪いことは一つもありません。
ただ、質問文の中に「(いろいろしている)それでも救われないのは、やはりどこか間違っているのでしょうか?」とあるように、○○をしてから救われようと思っておられるのではないでしょうか?
聴聞をして助かろう、お勤めをして助かろう、念仏して助かろうというのは、皆同じように、まず自分が何かの行為をしてから救われようということになります。そうなると、自分の行為と引き換えに阿弥陀仏が救って下さるという図式になります。それでは、自力回向になります。
聞いて助かろうということは、自分が聞いてそれから救われるということになりますから、やはりただ今の救いとはなりまません。ただ今助けるの仰せを聞く時には、自分から聞きに行こうという行為は一切そこには入りません。自分から聞きに行こうという前に、ただ今助けるの仰せが私に与えられているからです。その仰せを聞いて疑い無いのが信心です。
私の行為は一切不要として成就したのが南無阿弥陀仏です。その南無阿弥陀仏は、私に常に差し向けられています。それを弥陀回向といいます。
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真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる(正像末和讃・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P607)
真実信心の称名念仏は、阿弥陀仏から差し向けられる法ですから、私の方から言えば不回向といわれます。だから、自力の念仏は嫌われると言われています。
私が何かをしたことによって救われるのではなく、ただ今助けるという弥陀回向の法である南無阿弥陀仏を聞いて下さい。私の行為はそこでは一切入る余地はありません。聴聞した先の未来にある救いではありません。
ただ今救う南無阿弥陀仏を聞いて、ただ今救われて下さい。