安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「『南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く』というのは、南無阿弥陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を思い出しながら、念仏を称え、それを聞くことでしょうか?」(Peingで頂いた質問)

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『南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く』というのは、南無阿弥陀仏の謂れ(善導大師・親鸞聖人・蓮如上人等の六字釈等)を | Peing -質問箱-

Peing-質問箱-に頂いた質問です。

以下は、私が書いた回答です。画像だと少し見づらいの文字で引用します。

「南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞く」とは、喩えていえば音楽を音楽として聞くようなものです。
南無阿弥陀仏の謂れを思いだしながら称えるのでは、自分の記憶や理解というものを一端経由して聞いていることになります。これは、前述の音楽に喩えると、音楽を聴きながら「この音階は○○だ」「ここのコード進行はこうなっているからより感動的に聞こえるのだ」と言うようなことを考えながら聞くようなものです。
音楽による感動は、音楽によるものであって、解説によるものではありません。それと似たようなもので、南無阿弥陀仏の救いは南無阿弥陀仏によってなされるもので、南無阿弥陀仏の解説によってなされるものではありません。
思い込まないようにするというのも、また聞き方を問題にしている状態です。南無阿弥陀仏はどう聞いても南無阿弥陀仏ですから、南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞いて下さい。

南無阿弥陀仏にどういう謂れがあるのがということを教えて下さったのが、善導大師や親鸞聖人の六字釈です。
しかし、この六字釈を読んで有り難いと思う人とそうでない人がいます。


これは前述の音楽解説と同じで、すでにその音楽を聴いて感動した人が解説を聞くと、「だから自分は感動したのか」と改めて思うようなものです。それに対して、その音楽を聴いていない人が解説を聞いても「なんか良い曲らしいね」という感想しかもてません。


音楽には音楽の力があります。少し前に使われる言い回しで言えば「歌の力」があります。それは別のものでも言えます。絵には絵の力があり、映画には映画の力があります。それぞれそれを直接見て感動することと、その解説を聞いて改めて思うことは違います。しかし、その解説がないと分からないことも多いです。


六字釈とは、「そういう謂れがあったから私は救われたのか」という解説であって、それを読んだら救われるというものではありません。


南無阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏と称え聞くところに私を救う力が私に働くのですが、そのことを親鸞聖人は教行信証に、曇鸞大師のお言葉から引文されています。

たとへば人ありて毒の箭を被りて、中るところ筋を截り、骨を破るに、滅除薬の鼓を聞けば、すなはち箭出け、毒除こるがごとし。(教行信証信巻)
(現代文)
たとえば、人が毒矢にあたって、筋が切れ骨が折れたとしよう。しかし滅除という名の薬を塗った鼓の音を聞けば、矢が抜け毒が消えるようなものである。

http://u0u0.net/SAah

ここで「滅除薬の鼓を聞けば」というのが、私が南無阿弥陀仏と称え聞いている状態です。
南無阿弥陀仏は私を救う働きがありますので、その働きは聞いて疑い無いところに現れます。


しかし、南無阿弥陀仏を称える前から聞く前から、あれこれと考えて「六字釈を思い浮かべるべきか」とか「こう考えるとただ今の救いの否定になるのでは」とか「何も思い込まないようにしよう」と考えていると、先の音楽で言えば音が耳に入ってきません。


それは、音楽の会場にきて解説書やパンフレットをずっと読んでいて、実際の音が耳に入らない観客のようなものです。それでは、音楽を聴いたとはいえません。


いろいろと思うことはあるでしょうが、南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞いて下さい。ただ今救うという南無阿弥陀仏ですから、ただ今救われて下さい。