安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞いたままが信心と言うならば私の心の変化とは無関係なのですか? しかしながら念仏称えて疑心なきことが信心決定と言うならばやはり私の心は変わるのではないですか? 訳が分かりません。」(みそみそさんのコメント)

anjinmondou.hatenablog.jp
について、みそみそさんより質問を頂きました。

みそみそ 2020-08-20 17:49:54
回答頂きありがとうございます。 南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏と聞いたままが信心と言うならば私の心の変化とは無関係なのですか?
しかしながら念仏称えて疑心なきことが信心決定と言うならばやはり私の心は変わるのではないですか? 訳が分かりません。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2020/08/17/220456

コメントで頂いたように南無阿弥陀仏と音声入力南無阿弥陀仏と聞いたのが信心です。私の心が特別なものに変化したことをもって信心とはいいません。煩悩が増えたり減ったりしないことからもそれは言えます。

また、南無阿弥陀仏に疑心がないのが信心と聞くと、私の心が変わるようにも思います。


この当たりはどう考えるかと言いますと、疑心とは疑蓋とも言われてますように、私と南無阿弥陀仏を隔てる蓋のようなものです。「蓋有る水に月は宿らじ」という歌もありますが、蓋がしてある水がめの水面には月は映り込みません。しかし、蓋がなくなり月が水面に映るようになったとしても、水そのものの性質はなにも変わりません。


同じように疑いという蓋がなくなって南無阿弥陀仏をそのまま聞いているといっても私の心は何も変わりません。この話で言えば、蓋ある状態から蓋がない状態になっただけで、私の心(水面)の性質は何もかわりません。そこで、この疑いの蓋とは何かといえば、「私の心」というよりは「関係性」と思って頂いた方が分かりやすいかと思います。


それでいえば、昔の真宗の法話で使われた例えとして、南無阿弥陀仏は「私はお前の親である」という親子名乗りだと言うものがあります。その例えで言えば、親子名乗りを聞いて、他人から親子の関係に変わったとしても私そのものは何も変わりません。変わったというのは、他人同士という関係から、親子へと関係が変わったということです。


南無阿弥陀仏をそのまま聞かない関係から、南無阿弥陀仏をそのまま聞く関係になったという違いはあります。南無阿弥陀仏をその通りと聞いていると聞くと私の心が大きく変わるように思います。実際に変化はあるのですが、それは隔てるものが南無阿弥陀仏と私の間にないという関係の変化です。