安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏すれば自然に三心が備わるというのは本当なのでしょうか?」(頂いた質問)

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法然上人はよく「一向に念仏を唱えさえすれば、自然に三心が具わるのである。」と仰っていますが、これは自力の念佛では | Peing -質問箱-

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念仏すれば自然に三心が備わるというのは本当なのでしょうか? | Peing -質問箱-

Peing-質問箱-に頂いたことについて、続きを書きます。


念仏を称えると自然に三心は備わるという言い方は、法然聖人の選択本願念仏集では、

第四に不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる。(選択本願念仏集・二行章)

とあります。


これは、念仏は「私が称え、その功徳を仏に回向することで救われる」というものはない「不回向」だということを言われたものです。ではなぜそうなるかと言えば、南無阿弥陀仏そのものに私を往生させる働きがあるからです。


質問箱に書かれたような、念仏を称えると自然に三心がともなうと言われたものは他にもあります。質問箱に挙げたものの続きを含めて書きます。

又人目をかざらずして往生の業を相続すれば自然に三心は具足する也。たとへば葦のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也。妄念のあしはしげゝれども、三心の月はやどる也。(和語灯録・諸人伝説の詞)

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これは、念仏を相続すれば自然に三心は具足することを、例えて言われたものです。葦が生い茂っている池に十五夜の月が宿るのは、ちょっと遠くから見ると月は宿っていないように思うけれどもよくよく近づいて見ると、葦隙間を掻き分けるように宿っている。私の妄念煩悩の葦は沢山生えていても、三心の月は宿るのだと言われています。


このように、念仏には自然に三心が具足するような働きがあることを言われています。


その理由を、法然聖人はまたこのように言われています。

阿弥陀ほとけの法蔵菩薩のむかし、五劫のあひだよるひる心をくだきて案じたてて成就せさせ給ひたる本願の三心なれば、あだあだしくいふべき事にあらず。いかに無智ならん物もこれを具し、三心の名をしらぬ物までも、かならずそらに具せんずる様につくらせ給ひたる三心なれば、阿弥陀をたのみたてまつりて、すこしもうたがふ心なくして、この名号をとなふれば、あみだほとけかならずわれをむかへて、極楽にゆかせ給ふときゝて、これをふかく信じて、すこしもうたがふ心なく、むかへさせ給へとおもひて念仏すれば、この心がすなはち三心具足の心にてあれば、たゞひらに信じてだにも念仏すれば、すずろに三心はあるなり。(和語灯録・七箇条の起請文)

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阿弥陀仏が法蔵菩薩といわれていた昔、五劫の間日夜心を砕いて考えられ成就された本願の三心であるから、うわついた感じていうことではありません。どんなに無知な者もこれを具足し、三心という言葉も知らない者までも、必ず自然にそなわるように作って下さった三心であるから、阿弥陀仏をたのみ、少しも疑う心もなく念仏するものは、阿弥陀仏は必ず私を迎え取って、極楽へ往生させて下さると聞いて、これを深く信じて、少しも疑い心なく、どうぞお迎え下さいと思って念仏すれば、この心が即ち三心具足の心であるから、ただひたすらに信じて念仏すれば、自然に三心はあるのだ。と言われています。


ここで「そらに具せんずる様」とか「すずろに三心はあるなり」とある「そらに」「すずろに」は「自然に」と同じ意味です。


ここで言われているのは、私が称えてどうにかなるという自力の念仏のことではありません。阿弥陀仏の本願を疑い無く信じて、念仏する人のところには、三心がどういう心であるかという文字さえ知らない人にも三心は自ずと備わっていくのだと言われたものです。


先に挙げたように、葦が生い茂った池に、その葦を踏み分けるように月が宿って下さるように、阿弥陀仏の私を救うという働きは南無阿弥陀仏となって私の心に届いて下さるということです。そのように念仏は、私が称えるという行為によって、それを差し向けることで三心が備わるということではありません。阿弥陀仏の方から私を救うと働き呼びかけて下さっているのですから、その本願を信じ念仏する人には必ず三心が備わってくると言われたものです。