123さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
私の家には浄土真宗の仏壇があり私の両親は浄土真宗を信心して死んで行きました。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110726/1311628830#c1311759639
両親は浄土に行っているのでしょうか。
私は両親が浄土に行っているのか甚だ疑問です。多分行っていないと思います。(123さんのコメントより)
亡くなられた方が浄土往生しているかどうかは、第三者にはわかりません。そういう意味では、行ってないと思うというのもいうことはできないものです。
しかし、浄土真宗の救いは、123さんがコメントに書かれたような、
両親はまさに死ぬ時に「死んだら浄土に行けるに違いない。」と思いながら死んでいったので安らかな顔を残された家族に見せて死んで行けたのだと思います。(123さんのコメントより)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110726/1311628830#c1311759639
とは異なります。
「今」ではない「死んだ後」の「目に見えない何か」を信じる信じないという話ではありません。
そう言う点で、123さんがコメントに書かれた
しかし
死んでも何もない***極楽も地獄もない***
結局のところ死んだら
何も考えることも思うこともなく ただ骨になっただけではないでしょうか。(123さんのコメントより)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110726/1311628830#c1311759639
ということも、死んだ後の有無や、それを信じられるか信じられないかを問題にされているのではないかと思います。
そのような目に見えない、あるいは未来の何かを信じることを、自力の信心といいます。他力の信心とは違います。
稲城和上の「蓮如教学の研究2」から引用します。
我々一般の常識的な信心は自力の信心である。というのは一般に常識的に考えられている信心は信ずる対象に向かって確信することであるからである。『新約聖書』「ヘブル」書11輯によると、
それ信仰は望むところを確信し、みぬものを真実とするなり
とあり、神の如く、目に見えない対象に向かって「間違いないと思い込む」ことであり、確信することである。(蓮如教学の研究 2 宿善論)
このような信じ方が、自力の信心です。浄土真宗で教えられる他力の信心は、これとは違います。
もし、浄土真宗の信心が上記のような者であるとすれば、123さんがコメントされた。
上記 お答えの
分かる人は誰もいません。いわゆる「浄土を見てきた人」はありません。
浄土の具体的な有様は、仏にしかわからないということです。とあるのは
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20110726/1311628830#c1311759639
お釈迦様の妄想ではないのかと思います。(123さんのコメント)
となります。
そのような「目に見えない対象」に向かって「間違いないと思い込む」のも、自分の理性や知恵によって確定したものです。自分の智恵や分別によって「浄土はこういうもの」「救いとはこういうもの」と規定したものは、みな間違いです。
ききわけ、しりわくる*1などわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業*2には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。(御消息23・浄土真宗聖典(註釈版)P781)
他力の信心とはこういうものであると聞き分け、知り分けなければならないというのは、皆間違いです。ただ、他力の不思議を信じる他力信心では、自分で計らうことはありません。信心を規定したり、概念化する必要はありません。浄土往生のお働きには、私の計らいが交わることはありません。と教えられています。
仮に浄土とはこのようなものと、自分で想像し、妄想して、そこに行けるだろうと考えているのは、自力の信心です。
他力の信心は、目に見えない未来を信じることではなく、現在ただ今私の上ではたらいておられる南無阿弥陀仏を疑い無く聞いていることです。
例えば、今の天気が、晴れだということは「信じる」のではなく、「疑い無い」状態というのと同じです。
南無阿弥陀仏は、私の上で働いて信心となり、浄土往生させていただけます。しかし、それが真実であって、妄想ではないといえるのは、私一人の上に本願力がはたらいていることに疑い無いからです。
第三者からみて、真実か妄想かを判定できるものではありません。そういう意味では、科学的な真理とは異なります。なぜなら、科学的真理は、客観的に証明や再現できるものです。
南無阿弥陀仏は、常に私一人にむかってただ今救う法として働いておられます。しかし、繰り返しになりますが、「ただ今働いておられること」を自分の智恵や理性をもって「正しいもの」と概念規定しているのではありません。そのような分別を離れて、ただ今働いておられる南無阿弥陀仏です。
死んだ後どうなるかではなく、現在ただ今働いておられる法を聞くのが浄土真宗です。