安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「あるかどうかもわからない後生を本気で救って欲しいのではなく、(目に見える範囲の、この)人生の意味を、ニヒリズムに対抗する救いを求めているだけです。 どのようにしたら後生の存在を信じ、阿弥陀様におまかせしきることが出来ますでしょうか。」(id:rigyabyaさんのコメントより)

id:rigyabyaさんよりコメントをいただきました。有難うございました。
ご本人は長文のコメントといわれていますが、最初にコメント全文を掲載します。

id:rigyabya 2019-09-27 22:52:33

山も山さん、はじめまして。
浄土真宗を調べていたらこのブログを拝見することが出来ました。
(長文の)質問をお許しください。お答えいただければ、幸いです。

私は、今まで科学や論理といったものが正しいことであるとの考えで生きてきました。
しかし、もう自分は若くないと思った時、いずれ自分は100%死んでしまうということを
そこはかとなく考えるようになりました。
するといずれ100%来る死に対した時、科学や論理には救い(意味)はないとわかりました。
その時は、考えて考えて、でも救いはどこにも無いと、苦しくて、いっそ死んでしまったら
楽になれていいのではないか、など支離滅裂な思考に陥ったりもしました。
宗教にまで手を出して色々調べた結果、いずれ死んでしまうとしても、
この人生を意味あるものにするための考えとして、
(もしかしたら唯一そういったニヒリズムに勝てるかも知れないと)浄土真宗にたどり着きました。

さて、私はもちろん自分自身の後生をコントロールする力などあるはず無いので、
そこは「そうなったら阿弥陀様におまかせします」という気持ちはあるのですが、
その考えには「もし、後生なんてものがあるとしたら(どうせ多分ないけど。諦め…)」
という但し書きが自分の中にあるわけです。
ニヒリズムを破って人生の有意味を確信したいがために後生救って欲しいわけですが、
肝心の後生の存在の確信が持てません。
そのため、救われていないと感じます。
というか、もう、そもそもの動機が邪悪です。
あるかどうかもわからない後生を本気で救って欲しいのではなく、
(目に見える範囲の、この)人生の意味を、ニヒリズムに対抗する救いを求めているだけです。
どのようにしたら後生の存在を信じ、阿弥陀様におまかせしきることが出来ますでしょうか。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/09/27/210058

後生については、やがて確実に死んで行かねばならないと自覚されたら、それ以上考えても後生の確信というのは生まれてきません。その点ではもう済んだ話になります。
なぜなら多くの人は、自分が死ぬということを当事者目線でなかなか考えられないからです。
自然災害でも被害にあった方の多くは「まさか私が被害者になるとは」と言われています。最近では千葉県の台風被害によってこれだけ停電が長引くとは誰も考えていませんでした。

すでにid:rigyabyaさんは、誰もが迎える死んで行かねばならないという問題を「全ての人は死ぬ」から「私は死ぬ」と受け止めてコメントを書かれています。ほかの誰でもない「この私」が死んでいくことに目が向き驚かれたのだと思います。その視点に立ったとき、生きてきたことにも死ぬことにも意味も救いも感じられなくなったと書かれていますが、そのとおりだと思います。

生まれては死んでいくこと繰り返すを「生死」といいますが、この生死が苦しみの意味を持って使われるのは終わりがないからです。六道輪廻にピンとこなくても生きている間も一年、一月、一日の繰り返しです。どこにもたどり着かず、どこにも行けません。どこにも行かないまま死んで行くとなると死んでいく意味もなくなってしまいます。そのような一生を、御文章では「なにごとを申すもいのちをはり候はば、いたづらごとにてあるべく候ふ」といわれています。

そのいたづらごとから何とか、出て離れようと思うのが「生死を離れる」ということです。それを自らの力でなんとかしようとしてきたのが、比叡山で修行をしておられたころの親鸞聖人です。しかし、親鸞聖人は自分の力ではどうにも生死を出づべき道はないないということで、比叡山を離れて法然聖人より南無阿弥陀仏の救いを聞かれました。


生死を離れるには、阿弥陀仏の本願以外にないことを、このように言われています。

(7)
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける(高僧和讃)

どこにもたどり着かない生死を繰り返しできた私は、寄る辺もない大きな海で苦しんでいるようなものでした。それを阿弥陀仏の本願だけが、私を海から離れさせて船に乗せ浄土へと渡してくださいます。

どこへもいけない私に向かって、浄土往生を示して実際に生まれさせるのが阿弥陀仏の救いです。そこではじめて、いたづらごとだと思っていた生きることも死んでいくこともまたありがたい事と意味を持ってくるのです。

私が後生の確信をしてから阿弥陀仏に救っていただくのではなく、どうにもならない私をただいま救うといま呼びかけられているのが阿弥陀仏です。どうしたらまかせらるかではなく、まかせよといわれる阿弥陀仏の呼びかけだと南無阿弥陀仏を聞いてください。人生の意味はあとからついてきます。