安心問答(浄土真宗の信心について)

浄土真宗の信心についての問答

「私は今まで「雑行雑修自力の心をふりすてて」はある程度までは自力の作業だと思っておりました。」(猿松さんのコメントより)

猿松 2018/12/03 14:03
(略)
私は今まで「雑行雑修自力の心をふりすてて」はある程度までは自力の作業だと思っておりました。
つまり「九十五種の邪道を出でて」「聖道門を閣きて」「雑行を抛てて」「助業を傍らにして」と、段階を経て先鋭化していって「一心に」までもっていくといった感じです。
しかし先生の「この領解文は他教他宗徒に言ったものではなく、真宗門徒に言ったもの」「ふりすててとたのみもうして候は同時」とお聞かせいただき、自力の悪あがきは必要ないと思いました。

こちらの状況状態はまったく頓着しなくてよい。老若男女善悪貧富賢愚美醜など一切関係なく、修行や念仏(もちろん自力です)もいらないと思いました。
今まで“念仏には祈願請求の意味はない”“信前であっても御恩報謝の気持ちで念仏する”と聞かされても、どうしても実感として理解できず、「後生御たすけそうらえ」と“お願い”しておりました。

そのような思いをふりすてて、ただ、ただ、“阿弥陀仏の本願の救いはこの通りである”というのを聞かせていただき、 “噫その通りでございました”と領解させていただくこと。だから聴聞が大事なんだなと思いました。

これが今回の聴聞での私の理解です。
あの後、“正定業としての称名念仏”と「たのみもうして候」の関係もお聞きしたかったのですが、それは次の機会とします。
今回の私の理解に修正点等ございましたらご指導いただければ幸いです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20181128/1543393640#c1543813430

猿松さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。返信を書くのが遅くなり、すみませんでした。先日は、にしのみや聞法会ではご縁を頂き有り難うございました。
猿松さんの書かれている通りで、「雑行雑修自力の心をふりすてて」と領解文にあることについて、段階的にどんどん捨てていくことではありません。もちろん、その人が救われるまでの過去を振り返れば仏教を知らなかった状態から、仏教を知るようになったとか、聖道仏教を信じていたけれども浄土仏教に転向したとかいろいろとあります。しかし、すでに浄土真宗の教えにあって、聞法をされている人にとっては「九十五種の邪道を出でて」「聖道門を閣きて」は終わった話です。

「自力を捨てて弥陀をたのめ」といわれているのですから、段階的に何かをしていくことではありません。これは、同時のことですから、自分である程度まで自力を捨ててから、その次の段階として弥陀をたのむということにはなりません。

ですから、唯信鈔文意では文章の順番では「本願他力をたのみ」を先に書かれています。

本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを「唯信」といふ。(唯信鈔文意)浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P699)

https://bit.ly/2Sw0oGj

本願他力をたのむというのは、阿弥陀仏の本願の私を助けるはたらきにまかせることですから、南無阿弥陀仏の仰せにしたがう人は、そのまま自分でなんとかしようという状態を離れています。それを信心といいます。

「自分はまだ○○だから、弥陀をたのめといわれてもその段階にない」という人はいません。南無阿弥陀仏は常に、今の私を救うと働きかけられていますので、ただ今救われて下さい。