安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

安心に関しての話自体が余りにも自分には抽象的過ぎて、異次元の自分の理解を超えた世界にいる人たちの話に聞こえてきて、「一体何の話をしているのだろう?」「阿弥陀仏という余りにも抽象的な概念をそもそも信じるとか信じないとかどういうことだろう?」 「阿弥陀仏に救われるとはどういうことなのだろう?その概念自体が理解できない?」 という疑問が残り、何か教えてもらったのか教えてもらってないのかよくわからないまま放り出されたような状態になります。(みそみそさんのコメント)

みそみそさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
記事を書くのが遅くなり申し訳ございません。

みそみそ   2019-03-17 18:49:58
(略)
話を読んでると何となくフワッとしたイメージしか掴めず、具体的に何の話を話しているのか理解できません。

決して山も山さんのお話を非難しているわけではなく、こと安心に関しての話自体が余りにも自分には抽象的過ぎて、異次元の自分の理解を超えた世界にいる人たちの話に聞こえてきて、「一体何の話をしているのだろう?」「阿弥陀仏という余りにも抽象的な概念をそもそも信じるとか信じないとかどういうことだろう?」
「阿弥陀仏に救われるとはどういうことなのだろう?その概念自体が理解できない?」
という疑問が残り、何か教えてもらったのか教えてもらってないのかよくわからないまま放り出されたような状態になります。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/03/075539

これについて、ワタさんからもコメントを頂きました。有り難うございました。

ワタ 2019-03-18 02:09:13
みそみそ様 少し気になったので、コメントします。
阿弥陀仏の私たち衆生の救いの方法は名号(南無阿弥陀仏)を与えて救うです。 既にみそみそ様に救いの南無阿弥陀仏は与えられています。
奇跡体験はありません。届いているままが救いです。(十劫安心ではありません)
みそみそ様は自分の口で自分の意思で南無阿弥陀仏と称えていると思うかもしれませんが、名号、本願力の力、働きによって、今、現に称えさせられています。称えようという心も自分で起こしている心ではありません。  
今、与えられている南無阿弥陀仏(名号)と向き合うことで、見えてくるものがあると思います。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/03/075539

安心について、概念として理解ができないということですが、そのお気持ちはよく分かります。
私も、そのように考えていました。それは、阿弥陀仏は「概念」としてあるのではなく、「実在」としてあるというようになかなか思えないからです。いわゆる「神話」のような話として「阿弥陀仏」とか「本願」「名号」を、以前の私は理解をしていましたし、それで「わかった」ように思っていました。

「神話」とは、「かつてあったらしい話」のような認識です。しかし、それは過去の話であって現在のことではありません。そのため現在の私には直接的に影響することではありません。また、「概念」としての「阿弥陀仏」ならば、ただ今のこの私を救う力はありません。

阿弥陀仏に救われるとは、そのまま本願を信じるということです。
阿弥陀仏の本願は、「私を救う」という本願です。「私を救う本願を信じる」ままが、本願に救われるということになります。

また、「阿弥陀仏という概念を理解した」のが信心でもありません。そのため昔から、「弥陀をたのむ」とか「弥陀の仰せをお受けする」とかいう言い方をされてきました。私には「理解出来る・出来ない」という範疇から、私を「救う・救わない」という範疇にあるのが阿弥陀仏の本願です。

ただ今救うの本願があるというのが前提ですが、その本願にただ今救われて下さい。