安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私は阿弥陀仏の本願を全面的には信頼していないから、おまかせする気になれないのだと思います。そしてこれは「三定死」のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれないのかとも愚考します。」(猿松さんのコメントより)

猿松さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。また、abcさんもコメントを頂き有り難うございました。

猿松2019-03-02 14:02:25
(略)
確かに、「蓋ある水に月は宿らじ」で、今救われていないのは自分の側に問題があり、その蓋を開けるにはどうすればよいのかと「手段と正解」を探しておりました。

御教授を何回も聞かせていただきましたが、難解です。正直何となくとしか理解できておりません。だから、ついつい念仏一つ称えるにしても「真剣に称えればいいのか」とか「無念無想で称えればいいのか」とか「計らいを交えずに称えればいいのか」等という計らいを交えてしまいます。

つまる所、私は阿弥陀仏の本願を全面的には信頼していないから、おまかせする気になれないのだと思います。そしてこれは「三定死」のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれないのかとも愚考します。

しかし先生も「南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏として称える」としか説かれようがないということは私も理解しているつもりです。

なかなか道は遠いように思われますが、しかし一瞬先かも知れません。それが他力の救済だと考えるからです。
再びとりとめのないコメントとなってしまいましたが、またご指導いただければ幸甚でございます。

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/01/042640

abcさんからもコメントを頂いており、それについてのコメントもありますが、全文はエントリーの最後に掲載しております。

猿松さんの悩まれていることは、「疑う自分に問題がある」「疑うことが止められない」という2点になるかと思います。
それぞれについて、以下書いていきます。

「疑う自分に問題がある」

この点については、正信偈にある通りで、それに関してはその通りです。

「還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入」といふは、生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり。されば『選択集』にいはく、「生死の家には疑をもつて所止とし、涅槃のみやこには信をもつて能入とす」といへる、このこころなり。(正信偈大意 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P1038)

https://bit.ly/2XvJPxz

こちらにも「このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり」とありますから、迷いを重ねるのは疑いがあるからです。
しかし、そこで「疑いを止められるか?」という問題が出てきます。

「疑うことが止められない」

猿松さんが、コメントに書かれている通りで、自分でどうやったとしても自分で疑いを止めることは大変難しいことです。出来ないことです。それは、「考えるな」というと同じことで、先のラジオの中でも言いましたが人間の脳は「○○を考えるな」と言われた瞬間に「○○」を考えてしまうものです。「ピンクの象を想像しないで下さい」と聞いた瞬間に、頭の中に「ピンクの象」は浮かんでいます。
「疑い」を、一つの「考え」「気持ち」とすると、それは出来ないことになります。


そこで猿松さんは「『三定死』のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれない」のではないかと書かれています。しかし、これは「病気でもう長くないと宣告されたら聞けるかも」という考えと似ています。「もう考えたくない」から、「考えられなくなればいい」という状態を目指していくようになっておられるのだと思います。


しかし、「無疑」というのは「考えなくなること」ではありません。救われても考えることはできます。
では、本願に対する疑いとは何かといえば「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず(歎異抄)」について、自分の方で「自分は○○(老だから、少だから、善人だから、悪人だから)だから救われない」と阿弥陀仏が選ばれない(差別)されないことを、自分で差別をすることをいいます。阿弥陀仏が見捨てられないのに、「いや自分は駄目です」と自分を見捨てることをいいます。


そんな私に対して阿弥陀仏は「自分を見捨てるな」とは言われません。そんなことを言われても、自分を見捨てた人には何の意味もありません。


阿弥陀仏は「私は見捨てない」「私を信じななさい」と呼びかけられています。それを、正信偈大意では「また寂静無為の浄土へいたることは信心のあるによりてなり」と言われて、先の歎異抄の続きには「ただ信心を要とすとしるべし」と言われています。
疑うことは止められないなら、本願を信じなさいということです。

まとめ

自分で「どうすれば疑わないようになれるか」という点での正解はありません。なぜなら、「正解にたどり着いた人を救う本願」ではないからです。
救われるとは「私を救うことに全く疑い無い阿弥陀仏の仰せを聞く」以外にありません。猿松さんは、自分の力ではどうにもならないのではないかと、自分を疑っておられるのではないかと思います。自分に対する疑いを晴らすことは自分にはできません。しかし、本願に対しての疑いは、「私を見捨てないと言われる本願を信ずる」ことで晴れます。
「自分を信じる」のではなく「阿弥陀仏を信じる」ということです。言い換えれば「自分で見た自分を信じる」のではなく「阿弥陀仏が御覧になったように自分を信じる」ということです。阿弥陀仏は、私を「もう助けようがないもの」と見捨ててはおられません。南無阿弥陀仏とは、私をたのめ必ず救うと喚びかけておられます。
ただ今救うの南無阿弥陀仏に、ただ今救われて下さい。



猿松さんのコメント全文

猿松2019-03-02 14:02:25

宮田先生

ネットラジオ版に取り上げていただきありがとうございます。
確かに、「蓋ある水に月は宿らじ」で、今救われていないのは自分の側に問題があり、その蓋を開けるにはどうすればよいのかと「手段と正解」を探しておりました。

御教授を何回も聞かせていただきましたが、難解です。正直何となくとしか理解できておりません。だから、ついつい念仏一つ称えるにしても「真剣に称えればいいのか」とか「無念夢想で称えればいいのか」とか「計らいを交えずに称えればいいのか」等という計らいを交えてしまいます。

つまる所、私は阿弥陀仏の本願を全面的には信頼していないから、おまかせする気になれないのだと思います。そしてこれは「三定死」のような切羽詰まった状態に自分を追い込めないとその気になれないのかとも愚考します。

しかし先生も「南無阿弥陀仏を南無阿弥陀仏として称える」としか説かれようがないということは私も理解しているつもりです。

なかなか道は遠いように思われますが、しかし一瞬先かも知れません。それが他力の救済だと考えるからです。
再びとりとめのないコメントとなってしまいましたが、またご指導いただければ幸甚でございます。


Abc先生

いつも私のコメントに目を通していただきありがとうございます。「横槍」大歓迎でございます。

今の私の状態は、正信偈でいえば「万善自力貶勤修」はわかるが「円満徳号勧専称」がわからないといったところです。
「円満徳号勧専称」と聞かされれば、「お念仏だけ称えればいいのか」とか「二六時中称えればいいのか」とか「一心不乱に称えればいいのか」とか、ついつい「してはいけないこと」をしてしまいます。

「何のやうもなく」といわれますが、この「何のやうもなく」がわからない、だからこういう時に限って自力頭がフル回転して「正解」を探し出そうとジタバタしてしまいます。

後、「行知」についてですが、「これにも真仮二種あり、真は「称名念仏する」であり、仮とは「九十五種」であります」とありますが、この「九十五種」は九十五種の邪道つまり外道のことでしょうか? それとも聖道門や十九願の諸善万行のことでしょうか?

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/03/01/042640