安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「南無阿弥陀仏と口に称えられているでしょう?それが証拠です。これって、南無阿弥陀仏を他の神仏に置き換えたらどの宗派、宗教でも成立しませんか?(JAWS18さんのコメント)

前回のエントリーについてコメントを頂きました。

通りすがり 2018/09/05 23:48
たまたま通りすがったものです。
源七さんの聞かれている法話は、本願寺派の布教使さんでは?
一般化するつもりはありませんし、
真摯にみ教えに向き合っておられる方もいらっしゃいますが、
布教使の養成や研修の段階で
親鸞聖人や仏教の教えからすると、おかしな方向にむかった話を
推奨している風潮があります。
誤った信心理解ですよね。
あのような法話は絵空事というか、まったく心に響かないどころか、真宗に絶望感すら感じさせる気がします。
機の深信を話さないで、法の深信はわかりませんよね。
…と日頃から感じているもので、失礼しました。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180905/1536086974#c1536158899

JAWS18 2018/09/06 12:24
私もお寺で同じような話をされているのをよく聞きます。
南無阿弥陀仏と耳に聞こえているでしょう?
南無阿弥陀仏と口に称えられているでしょう?
それが証拠です。

これって、南無阿弥陀仏を他の神仏に置き換えたら
どの宗派、宗教でも成立しませんか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180905/1536086974#c1536204267

現在の法座での意見と思い紹介させていただきました。

それ以外にも、現場では以前ほど法座が少なくなったので、踏み込んだ話になかなか入りにくいとか、死んだ人はみな仏様になっていると思い込んでいる人にはなかなか言いづらいという意見も聞きました。

コメントで頂いたJAWS18さんの書かれたような話は、私も聞いた事があります。決して、間違ったことはいってはいないのですが、そのいわんとする意図が相手に伝わっているのかという点では来られた方によって変わると思います。


私の場合は、元親鸞会講師であったこともあり、話をすることがある方も親鸞会会員および元親鸞会会員の方が多いです。それらの方に共通するのは、「努力をしなければ救われない」「私の何かが不足しているから救われない」という考えでした。そのため、私は「本願はすでに成就しています」「ただ今救われます」と話をしたり、ブログにも書いてきました。


親鸞会を離れて10年になりますが、その間に親鸞会と全く縁のなかった方に話をすることもありましたが、それらの人はまた親鸞会会員(元会員)とはまた違った考えをもたれていました。「みんな助かっているのではないですか?」という人や「救いとは何ですか?」という人もおられました。そういう人に「後生の一大事」という話をするのは、なかなか大変なのではないかと思います。ただ、私の場合はそれまで「後生の一大事」の話を十年近くほぼそればかり話をしてきたので、心理的な抵抗はありませんでした。もちろん親鸞会では「後生の一大事」の話はしても、その解決については話がないので、それは看過できない問題です。


コメントでJAWSS18さんがいわれるような、「これって南無阿弥陀仏を他の神仏に置き換えたらどの宗派、宗教でも成立しませんか?」はごもっともな指摘だと思います。
それに対して「そうではないですよ。南無阿弥陀仏で救われますよ。」といって相手に伝えるには、結局「南無阿弥陀仏に救われる」ということを、話をしている本人にウソがないことではないかと思います。


特に今日は、報道や広告、はたまた電話や郵便物による詐欺事件(オレオレ詐欺など)によって、多くの人は「ウソ」に敏感になっています。そうだからこそ、裏表なく山口県の周防大島で2歳の子供を助けた災害ボランティアの尾畑さんが大きく報道されています。


私自身を振り返って見ても思うことですが、20年前を振り返ると様々な広告に対して、「どんな意図でこの広告を出したのだろうか?」と素直に見れない自分かいます。そう感じると、たまにテレビを見るとCMの「この商品を買いなさい」の圧力を感じて疲れていまいます。私は山口県に住んでいますが、招かれて都会に行くと電車の中の広告や駅のデジタルサイネージを見ると同様に感じます。その疲れの原因は、「本当にこれはいいですよ」という情報が広告から伝わらないからです。本気でない広告は、ただのノイズにしか感じられません。


そのため、ここ数年は例えばテレビ番組「アメトーク」の中で「家電芸人」が紹介した商品が売れるという現象があります。私もたまに見ますが、少なくとも「家電芸人の回」で勧める芸人さんの家電に関しては、「ウソはないな」と感じます。


同様に、法座で話をする内容に「ウソはないな」と思われたならば、聞く人は不満は持たないと思います。
反対に「これはウソだな」と思われたなら、聞きに来た人の反発を受けると思います。


結論としては、話をする方が「南無阿弥陀仏の救い」を疑い無く聞いているかどうかではないでしょうか。私のようなものがいうのは、おこがましいですが、聞く人が聞けば「疑い無いこと」として南無阿弥陀仏のいわれを話しているかどうかは、参詣者は信不信を問わずに分かるものです。