安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「お寺の法座では、後生の一大事について、あまりお話されないように思います。本願が成就し、南無阿弥陀仏となって、いたり届いているとか、他力のお救いはもうすでに仕上がっているから、私の側の仕事はないといったお話ばかりです。」(源七さんのコメントより)

源七さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

源七 2018/09/03 11:02
いろいろなところで聞法している中で、気になっていることがあり、質問いたします。

お寺の法座では、後生の一大事について、あまりお話されないように思います。
本願が成就し、南無阿弥陀仏となって、いたり届いているとか、他力のお救いはもうすでに仕上がっているから、私の側の仕事はないといったお話ばかりです。
信前信後があるということや、信一念のことにもほとんどふれられませんし、それだと、すでに一念を突破した人はいいですが、聴聞に来ているお年寄りはただありがたがっているだけになってしまうのではないでしょうか。

まるで聴聞にきている人がみんな救われているかのような話ぶりを聞いていると、もしかしたら、お話をされている方も、信心決定されていないのではないかとさえ思ってしまいます。
話で救われるのではありませんから、こんな話では救われないとまでは思いませんが、そういうお話を聞くのは信心決定してからにして、まずは一歩踏み込んで、我が身を問い詰めて、後生の一大事があるぞ、後生と踏み出したらどうかと問うていかなければならないのではないでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20180829/1535482663#c1535940149

コメントされていることについては、私もそう思うことがあります。


とはいえ、なぜ源七さんが言われるような話がされているのかという背景を考えてみたいと思います。法座で話をする方の目線で考えると、来られた方が聞きたいと思う話をしています。つまり、お寺に来られている人は、源七さんの言われるような話を聞きたいと思われる人が多いのではないかと思います。
信前信後などの話をされる先生の法座には、またそういう話が聞きたい人が来られていると感じます。


そこで後生の一大事について話をされる法座が少ないということについて考えますと、身も蓋もない言い方をすると、特にお寺での法座に新しく来られる方があまりいない現状があるからだと思います。これは、社会構造の変化と関係をしています。
例えば、大正時代ごろに活躍された方の説教本を読むと、このように書かれています。

何処にても朝席には法義に志し厚き人の多きものにて、夜席は法義心の未だ厚からざる、青年や婦女子の多きものなれば、朝席には緻密なる安心談を主として安心に適切なる材料を加え、夜席は仏教に誘因する譬喩因縁を用い、昼席は、その中間なるものなれば、その材料もその中庸を取れリ。これ本書起稿に最も苦心を要せられし点なり。(木村徹量著 信疑決判)

信疑決判説教

信疑決判説教

この本は大正11年初版の本です。このころは、日本社会も人口の流動性はほとんどなく。生まれた土地で生涯をすごす人がほとんどだった時代です。そのころには、地元のお寺の法座も朝、昼、夜と続けられるところが多く、朝は年配の方で長年法話を聞いてこられた方が多く、夜は昼間働いていた若い方がそれほど聞く気がなくても法座に行くという感じでした。


後生の一大事などの話は、夜席のそれほど聞く気がない人が多い時になんとか聞いてもらいたいということでいろいろと苦心をされていたと思います。戦後になり、特に地方では若い人が地元を離れることが多くなり、お寺に来られる方も長年聞いている人が中心となったところが多いです。その人にむけた話をしているうちに、源七さんのいわれるような話が多くなったのだと思います。


最近は、お寺以外の会場でそれまでお寺に来なかった人に向けての話をされる活動も各地でされています。そういう場では後生の一大事について話をされる法座も増えてくるのではないでしょうか。今はその過渡期なのではないかと思います。


今生きている人に向かって、その人が「それならわかる」という話をするのが、話をする人の仕事だと思います。聞かれた方が、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて疑いない身になって、浄土往生する身になって頂ければそれが一番のことです。