安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「念仏を称えながら、この世をたくましく生きるには喜びを感じて生きるにはどうしたらよいか、どう考えたら良いかと思います。」(やまぶきさんのコメントより)

やまぶき

阿弥陀仏の本願が成就しているので往生させて頂けると信じて念仏を称えさせて頂いています。
しかしながら日常生活はお金の心配をしたり、仕事に追い詰められてふさぎ込み、死んで浄土ならいっそのこと全て投げ出してしまいたいという思いが湧くような状態です。
阿弥陀仏の本願は、お金や健康、人間関係や商売繁盛など日頃望んでいる幸福にするという約束ではありませんから現世利益を期待するのは誤りです。
念仏を称えながら、この世をたくましく生きるには喜びを感じて生きるにはどうしたらよいか、どう考えたら良いかと思います。(コメント欄・やまぶきさんのコメント)

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2018/12/05/042621

やまぶきさんが、思われるようなことは私も考えたことがありますし、縁によって今でもそう感じることもあります。
それでも、阿弥陀仏にそのことをなんとかして欲しいと思わないのは、やまぶきさんが仰るように、阿弥陀仏の本願は、経済的状況、健康、周囲の人間関係を変化させ私が思うようにしてみせるというものでは無いからです。阿弥陀仏に救われた言っても、ある日から自分の環境がガラリと変わることもありませんし、突然病気が治るということもありません。ですから、経済状況や、仕事のことも、日々生きていく上で感じることは変わりません。


それでもやまぶきさんが、生きていこうと思われるのは阿弥陀仏の本願を聞いているからです。確かに阿弥陀仏は「私を救う」と本願を建ててよびかけられています。しかし、この「救う」というのは何も苦しい状況から、そうでは無い状況に引き上げるという意味ばかりではありません。

(7)
生死の苦海ほとりなし
 ひさしくしづめるわれらをば
 弥陀弘誓のふねのみぞ
 のせてかならずわたしける(高僧和讃・龍樹讃 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P579)

https://bit.ly/2SaOyBI

こういうご和讃を拝読すると、「生死の苦海に沈んでいる私」を、阿弥陀仏が船に乗ってやってこられて船の上から引き上げて下さるというように感じます。しかし、それは法の働きについていわれたもので、阿弥陀仏がまるで高いところから私を見て「お困りでしょう。では助けましょう」と思われて救って下さるのではありません。


阿弥陀仏の本願は、慈悲によって建てられた願です。慈悲とは、苦しむ人の苦しみを自分の苦しみと受け取るところから起きるものです。私たちの生活している場でも、その人の抱える苦しみに社会が全く無理解な時には、その苦しい状況に声を上げようという人も現れてはきません。最近で言えば、学校教師の労働環境が大変過酷だということが知られるようになり、改善しようという動きも少しずつ出てきました。

そこで、阿弥陀仏は、不請の友といわれます。

もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす。
(大無量寿経・浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P7)
(現代文)
さまざまな人々のためにすすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受け、導いていく。

https://bit.ly/2Ezivbv

不請の友とは、私が声を上げる前に慈悲をもってその苦しみを知って、共に苦しんで下さるということです。私たちの生活感覚でも感じる人もあると思いますが、「苦しい」と思うことがあっても、「その苦しみに共感する人が誰もいない」という状況は苦しみの軽減にはまるでなりません。「自分だけではない」という同じ境遇の人がいることを知るだけでも、少し変わります。まして、私一人の苦しみを知って、その苦しみを共に苦しむ形で引き受ける人があれば、以前とは全く違ってきます。


今でもそう言われる方がどれだけあるかは知りませんが、「共に苦しみ、共に地獄へ堕ちて下さるのが阿弥陀様」という表現をされる人もありました。やまぶきさんの今の状況が、時によってはこんなところに居たくないという状況なのだということは、コメントの内容から想像します。苦しいときに、敢えて苦しんで下さる方がおられるということでの「もう少し生きてみよう」という逞しさは出てきます。しかし、それは「逞しく明るく生きる」というような「強い人間」になったことではありません。


私自身もそうですが、阿弥陀仏に救われたからといって「強い人間」になったとは思いません。ただ、阿弥陀仏に摂めとって捨てられないというだけが、以前と違うことなのです。弱くて、苦しみに沈む私に「共にあるぞ」と呼びかけられるのが南無阿弥陀仏です。


そうやって「共にあるぞ」と呼びかけられていることに、「それだけでいい」というのが本当の意味での「逞しく明るく生きる」ということではないでしょうか?