例えば、自分の罪悪が知らされねば救われないというように考えていました。また、後生の一大事に驚きが建たねば救われないとわれないと思っていました。浄土真宗の救いは、そういうものではないと聞きましたがどういう事でしょうか?(頂いた質問)
お尋ねの通りで、浄土真宗の救いは○○をしなければ(知らされなければ)救われないというものではありません。
阿弥陀仏の救いは、社会保障のように自分で申請したり何かの基準をみたさないといけないものではありません。
浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。(安心決定鈔)
とありますように、阿弥陀仏の救いを知るには阿弥陀仏の本願がどういうことで起こされたのかを知って頂きたいと思います。
阿弥陀仏の本願は、私の要請に応じて建てられたものではありません。「助けて」と声をあげられない私を御覧になって「助ける」という本願を建てられたのです。学校のいじめ問題や、いろいろな社会の問題がありますが、本当に困っている人は「助けて下さい」ということも出来ない人がほとんどであるのが現実です。
海に溺れている人は、「誰か助けて!」と大声をあげる余裕もありません。
そういう私を御覧になって「助ける」と立ち上がられました。
そのことを善導大師は、このようにいわれています。
しかるに諸仏の大悲は苦あるひとにおいてす、心ひとへに常没の衆生を愍念したまふ。 ここをもつて勧めて浄土に帰せしむ。 また水に溺れたる人のごときは、すみやかにすべからくひとへに救ふべし、岸上のひと、なんぞ済ふを用ゐるをなさん。 (観無量寿経疏)
仏様の御慈悲は苦しむ人にかかるのであるから、常に苦しみに沈んでいるものにかかるのです。そういうものを浄土に往生させてくださいます。また、水に溺れている人はただちに救って下さいます。岸にいる人よりもそれは優先されるものです。
仮に溺れている人を助けに来た人が「あなたの名前は?」「年齢は?」「今迄どんなことしてきました?」「どんなこと思ってきました?」と質問するでしょうか?また、それに答えられなければ救いませんなどというはずはありません。そんなことをいうのは、保険会社の人であって医者や救助隊ではありません。
阿弥陀仏は、例えていえば医者や救助隊の人にあたります。私がどうにもならない状況にあるという点で救いに来られたのですから、実際に救いに来た上で身体検査をするようなことはありません。ただ今救われて下さい。