安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願をそのまま聞くとは、疑いのあるままでもよいから信じてこいとの仰せでしょうか?(頂いた質問)

本願をそのまま聞くということですが、阿弥陀仏は疑いのあるままでよいから阿弥陀仏をひたすら信じてこいとの仰せでしょうか。疑いを捨てられなくても間違いなくまもっていただけるのでしょうか。(頂いた質問)

本願を疑う心を持ったまま、言い換えると自力を持ったまま浄土往生はできません。
しかし、「疑いがあるから自分はまだまだダメだ」とか「疑いを捨てられない私は本願に漏れている」と考えるのは間違いです。


問題は、「自分は疑っている」とか「自分は○○である」という自分の機の姿にとらわれて、本願の仰せを後回しにしてしまうところです。
南無阿弥陀仏と呼びかけられるのは、「われをたのめ、必ず救う」との仰せです。「われをたのめ、その前にまず疑いを捨ててからだ」とは言われていません。


阿弥陀仏の本願は、阿弥陀仏と私の契約ではありません。契約は、相手のことをよく調査して、お互いが合意して完了です。また、契約という約束事は、○○を守りましょう、そうしたらこのような恩恵をあなたに与えますという性質のものです。

(3)ユダヤ教・キリスト教で、神からの恩恵として、人間との間に交わされた取り決め。(略)キリスト教は、神への信仰によってこそ罪の赦しと救いがもたらされるという新しい契約、つまり新約がイエスによってもたらされたとみなしている。(大辞林より)

「本願とはお約束のことです」と、親鸞会在籍時によく聞きました。また、私自身人にも話をしていました。しかし、これは間違いです。
約束とは契約の意味があります。契約は、契約内容を守らない限りその効果は私にあらわれません。別の言い方をすると、契約には条件があります。もし、阿弥陀仏の本願が契約とするならば、私が何かをできなければ救って下さらないということになります。その意味で、「本願とはお約束のことです」というのは間違いです。


阿弥陀仏の本願は、私との同意の下に建てられたものではありません。苦しみ悩む私の姿を哀れに思われて、大慈悲心をもって阿弥陀仏の方から先に建てられたものです。阿弥陀仏は私のことを「一子のごとく」思われているといわれるのはそのためです。
阿弥陀仏と私を親と子にたとえた話が多いのも、親が子を思う心は契約によるものではないからです。「私のことを信じない子供は、もう愛さない」というのは、親の慈悲ではありません。阿弥陀仏の大慈悲は、真実を知らず、真実に背き続け、疑い続ける私に対して、それでも見捨てず常に呼びかけて下さいます。


お尋ねの文章を使うと「疑いのあるままでよいから」とにかく、私の願いを聞いて下さい、どうか浄土に生まれて下さいと働き続けておられます。現在疑っている者も見捨てられません。
「これって契約なんでしょ」と思う心も疑いですが、私の方に何も要求をされない、本願力回向の救いだと聞いたなら疑いはありません。
疑いを捨てて聞けというのも一つの言い方ですが、聞いたら疑い無いですよと言っても同じことです。

(38)
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
 回向を首(第一。中心)としたまひて 大悲心をば成就せり(正像末和讃・浄土真宗聖典(註釈版)P606)

阿弥陀仏の本願は、苦しみ悩む私を見捨てられず、回向を第一とされて、南無阿弥陀仏となられました。


「疑いを捨てよ、そうすれば助ける」という契約ではありません。
「わたしのこの願いを聞いて下さい、あなたを浄土に生まれさせて下さい」と、回向を首とされた本願です。「○○だから救われない」と考える前に、本願を聞いて下さい。

そのまま聞くとは、自分の考えより先に、阿弥陀仏の願いを聞くことです。
必ずただ今救われます。